断捨離は悪の物質至上主義から脱する清廉なこと、というイメージで捉えられているようだ。
老いた親に終活の一環として身の回りの品々を処分するよう勧める娘の行動を紹介するメディアの取り上げも同じ文脈で見られよう。
しかし、疑問!
手間暇、お金を投じて取得したものでしょう。使わないものを欲しがっている人に有償・無償で譲るというなら格別、ただ捨てる、粗大ごみに出すってどういうこと。
それって、日本の住居が短期間で壊されるのは問題、という論調と整合性がないのではないか。
都会に住む青年が断捨離をして田舎に住むという記事を拝読したが、田舎に住んでカッコよく始めたのが井戸掘り。
そのために穴あけ用品、水道用品、と次々に買い出しを始めてたちまち物品の山。用意した物置には入らなくなってしまった。費やした金額もかなりのもの。
なーんだ、「趣味,嗜好に関しては断捨離はこの限りにあらず」というだけではないか。
瀬戸内寂聴は人生後半、「出家」をセールスポイントにして生きてきた。しかし、男、着物や髪の毛は断捨離しても「業」ともいえる文学は捨てないどころか益々盛んに活動してきた。
出家というより目的の一本化を図り、それ以外は邪魔になるので捨てた、と言った方が正確だったのではないか。
人間、たとえば作家はある目的がはっきりすると、そのための資料収集、取材活動にはお金に制限を加えないそうだ。トラック一杯の資料を集めるといわれている。だからと言って
それを物質万能主義の表れなどと蔑むのでしょうかね。
現状では保持することに格別の意義がなくても将来何かに使うかもしれないと保有することーまさにモノが増えるコツであるが―は創造活動、リサイクル活動の観点から大変な意義を持つことも理解すべきではないか(スペースの問題とは別)。
自分の例で使わないのに保有していたものが急に使うようになって役に立ったものがあった。(次の写真)
①渋柿 美味しくなく渋抜きなんて面倒なことをやる暇がなく、邪魔な立木として伐採することも考えられた。しかし、柿渋作りがむづかしくなく価値あることを知って急に愛おしく感じられるようになった。
②砂利や砂の入っている20kビニール袋 コンクリートを作るためこれまで膨大な数を購入し、その袋を捨ててきた。渋柿を入れつぶすのに強く透明で最適な袋となった。
③登攀用ハンマー ロッククライミングはもうやることはなく邪魔なものになっていたが、柿をつぶすのに最適な道具となった。
田舎暮らしの良さはその相対的な土地の広さの故、無限の可能性を秘めている物を断捨離という名の刹那的処分から解放できる点にあると考える。