方 丈 庵 跡 の 謎 その2
方丈庵へのルート
鴨 長明 の方丈庵跡とされる箇所まで実地踏査(2008年12月)を基にご案内する。
克明な地図を事前に目にする事はなかった。が、目印となる2箇所の名称をおさえておくことで何とかなった。
2箇所とは法界寺と日野野外活動施設。
この項を見ていただくのであればもう不安はない、と思う。
アクセス
京都から行く場合、最寄り駅は、市営地下鉄東西線 石田駅となる。
そこから京阪バス。ただし本数が少ない。かといって歩くには遠い。
私は、先に平等院に寄ったので、京阪電鉄宇治線の六地蔵(ろくじぞう)駅で降りた。
が、そこから地下鉄・バスを乗り継ぐのは昼の短い冬にあってはロスになる。
そこで、タクシーを利用した。約10分、810円と効率的。
運転手さんには法界寺より日野薬師と言った方が通じる。その名称のバス停付近で降りた。(写真)
日野薬師
少し先に進むと入り口がある。入り口の解説文はよくまとまっている。(写真)
宝も有する歴史あるお寺なので覘いてみることにした。
当初は天台宗系であったらしく、最澄(伝教大師)ゆかりの仏像があるそうだ。それを真言宗醍醐派別格本山として真言宗の僧侶が拝んでいるのであろうか。
変な気もするが、そんなことはないのか。
思ったよりこじんまりとしている。財政豊かには見えない。
京都といってもここまでくる人はさほど多くないのかも。(下の写真は阿弥陀堂)。
境内を出て、親鸞ゆかりの誕生院前を通っていよいよ方丈庵跡に向かう。(写真)
「方丈石 左800米」という石柱が立つ四つ角に出ればよい。
四つ角については進行方向と後ろを振り返ったもの、双方向から撮った。(写真)
すでに少し傾斜がはじまっている道を先方の山に向かって進む。
少し進み、フェンス脇で振り返ると市中の町並みが視界に入ってくる。(写真)
そのどこかに偏屈な長明が心を許した麓の少年の末裔が住んでいるのかも。
当時の60歳は今の70歳いや80歳を超える老人であろう。
老人と海に近いものが感じられる。そのあたりの記述を以下に。
麓(ふもと)にひとつの柴の庵(いおり)あり。
すなわち、この山守(やまもり)が居るところなり。
かしこに小童(こわらわ)あり。
時々来たりて,相い訪(とぶら)う。
もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。
彼は十歳(とお)、これは六十(むそじ)。
その齢(よわい)、ことのほかなれど、心を慰むること、これ同じ。
日野野外活動施設を左に見ながら歩く。(写真)
だんだんに道が狭くなる。(写真)
手を使うまで険しいことはないが、傾斜のある登山道といっておかしくない道。
途中から馬・牛の通行は無理と思われる道幅となる。
きこり道の部類になる。
さほど時間を経ずに大きな岩の下に着いた。これを方丈石といっている模様。
岩には腐りかけた方丈庵跡探訪記念標という木柱が立てかけてあった。(写真)
水墨画的発想からすれば、かような巨石の上を方丈庵跡としたいところであろう。
上には二つの石碑がある。
左はライオンズクラブが建てたもので、内容はどの本にも書かれているもの。新規性はない。(写真)
右は500年以上たってからの江戸中期のものらしい。 (写真)
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巨石下部よりさらに下の沢まで降りてみる。
涸れ沢でなく生きている沢だ。(写真)
こんなに近くに清水があるなら筧を引く必要もないのではなかろうか。
大木はなく、細い木の倒木も目立つがなぜだろう。出水による土石流か、強風によるものか。
土壌はしまりにくいものである。岩もはがれやすそうな積層状のものが目立つ。
長明は軒の近くに林があるから薪に使う小枝を拾うに乏しからず、といっている。
が、これは逆に近くまで行かなければ林がないこと、すなわち一定の距離あることをを意味するのでは。
跡地は林のど真ん中。表現と異なるものを感じる。
1216年当時の住居跡と判断するのは難しいのでは。
最寄のお寺といえる法界寺には長明についての記録がないそうだが、それも不思議でならない。
おまけ
長明ゆかりの下鴨神社・糺の森を流れる小川