風たちぬ 宮崎監督と掘辰雄 v2
昨日、2015年2月20日、早くも地上波日テレで宮崎監督の「風たちぬ」が放映された。
宮崎監督が堀辰雄的雰囲気に相当に影響を受けていることは伺えるが、またまた堀越二郎の妻と堀辰雄の婚約者で富士見高原療養所で亡くなった矢野綾子がごっちゃになってしまうだろう。承知の上、あえてそれを狙ったのかもしれないが。
映画では、堀越が病床にある妻の手を握りながら仕事する場面があったが、次の文章を参考にしているのかもしれない。
「ありがとう、、おいしい」といいながら綾子は毛布からそっと手を伸ばした。細い蒼白い腕に注射の跡が青黒く鬱血して浮かんでいる。辰雄はその手をまた毛布の中に入れてやりながら、掌の中に指先を包んで、また、目を閉じてしまった綾子の顔をじっといつまでも見つめていた。」
ここで,2013年四国遍路の最後に立ち寄った京都浄瑠璃寺についての雑文を再掲させていただく。
堀辰雄というと、“微熱が。コホン。” というイメージ。今の時代、はやらないけど
「大和路」に収められている「浄瑠璃寺の春」は暗い時代背景なのに明るく、生き生きとした表現でファンが少なくない。教科書で読んだという人も多いようだ。
会話体が多く、それが新鮮なのも魅力にあげられる。たとえば、この一節。
阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、16,7のジャケット姿の少女だった。「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。
「何本あるのかしら? 1本、2本、3本~」
「みんなで7本だす。7本だすが、たくさん成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目当てに,人はんが大勢ハイキングに来やはります。あてが一人で捥いであげるのだすがなあ。その時のせわしいことやったらおまへんなあー」
この文節で思うことが二つ。
1 テープレコーダーが無かった時代なのに何で会話を再現できているのか。
堀は中学、高校、大学と芥川龍之介の後輩で典型的な東京下町っ子。早口の現地語がわかるはずはないと思うけど。
今回の四国遍路で気が付いたことの一つ。訛りがひどくてわからないのは東北弁と鹿児島弁だけではなかった。全国からくる遍路は媚びて標準語を話す必要はなく堂々と出身の訛りで話す。山口弁でも名古屋弁でも早口でしゃべられると特に語尾の2割くらいはわからず、私はわかったようなふりをしていた。
2 元気で素朴な16,7のジャケット姿の少女は多分故人だろうけどその後どういう人
生を送ったのだろうか。
実は小川和佑氏がその著「堀辰夫その愛と死(1984年)」でその少女があの会津八一をも案内した少女であったことを述べ、「もしも赤きジャケツ」の彼女が生きていたなら、現在ならもう還暦をとうに越えた老女のはずだ。」と述べており気になっていたのだ。
国宝の九体仏が入っている阿弥陀堂の入り口で書と押印をお願いしながら、そのことを聞いてみた。
「存命です」
えー!!
堀辰雄夫妻の肉声を聞いた人がまだご存命とは。
90歳くらいで大阪にお住まいとのこと。
「住職は息子さんですか?」
「いいえ、弟さんです。」
「先ほど団体さんの前で解説をしていた人ですか?」
「いえ、あの人はその息子さんで、副住職です。」
2013年4月21日は私にとって四国遍路お礼参りの御りやくだった。
奈良、京都に来てよかった。
文中の柿木についても、あれです、と教えてくれた。