<遍路札所の裁判沙汰>
四国遍路のお寺に関して訴訟があったらしい。
当HPでもちらっと触れた62番札所宝寿寺についてである。
NHKがTV番組関連で出した書籍にもそのお寺についてはなぜか紹介欄が空白であった。
自己主張がお強く、関係周囲との間に摩擦を生じている面があるようだが遍路にかかわるお寺としていかがなものかと思う。
この先どうするのだろうか。
88か所札所の決定、改編等はどういう組織がどのように有権的になせるのか知らない。が、歴史上変更は何回かあったのは事実。
遍路を研究のテーマとする人、学者も多い。積極的な提言を望みたいところだ。
<歩き遍路と車遍路>
通しの歩き遍路の中には自分が遍路ヒエラルキーの最上層に位置すると錯覚し車遍路や区分打ちの人を下に見る人もいるがそれはおかしい。
体の支障、まとまった日程確保ができないなど諸事情があり、40数日通しで歩けるなどある意味恵まれた結構なご身分ともいえる。
若いうちからやーめたと仕事を放棄したエスケイプ遍路より働いて年金・健康保険料の減免を狙わず、税金を払いながら休みを見つけて区分打ちしている方がまともに思える。
ただ、車遍路だと札所から次の札所まではカーナビの指示通りに運転するだけの、コスト、面倒な手続きになってしまいがち。
私の場合、遍路で収穫となったのは時間をかけて歩いて進む過程での自分の心持、風景、人(他の遍路、宿・地元の人など)とのかかわりで得られるものであった。
車ではこれがとても希薄なものになってしまう。いつかまとめて日数を取れるようになったら歩くことをお勧めしたい。
<お寺の価値>
空海が四国で修行するとき、当然ながら88カ所札所などなかった。山頭火もまともに歩いているわけではないし、お寺のことなどとやかく言っていない。
彼らはお寺抜きで「為」している。
彼らほどのものは何ら見いだせず、残せない我々でも、歩けば歩くほどお寺の意義は小さくなりお寺からフリーでいられるようになる。
裁判沙汰の寺、空っぽの寺、妾に遍路用品を売らせているという噂の寺、外国の文化普及に一生懸命のお寺などいろいろ。
だが、お寺を相対的なものとしてみることができる歩き遍路なら心の平穏は乱されない。
お寺に価値を置かざるを得ない車遍路だとその点は容易ではなかろう。
2017.3.27記