四国遍路 記録編
はじめに―記録を書き始めるにあたって―
歩き終えてもう1年以上が過ぎ去ってしまった。
なるべく早く記録を、と思いながらも筆を進めることはできなかった。
段々、当初の新鮮だった記憶もあやふやになってくる。
メモ類をしっかり取っている人も多いようだが、私の場合、取っていない。
到着時間等最低限の記録は写真で済ませ、後は記憶しておけばよいと思っていたからだ。
夏休みの宿題が終わっていないかのようで気になる一方だ。
帰って速やかに記録をアップする人は偉いと思う。
ただ、現役の方、何らかの仕事を抱えている方はゆとりがなくてできないだろう。
私の場合も他に優先順位ある仕事があり、これが終わったのはやっと2014年6月末。すでに1年2か月以上経つ。
というわけだ。
時間ができ、進められる状況となったので忘却と競争しながら―イヤ、負けている―書き始めることになった次第だ。
それにしても1200キロの歩きは大変な距離だが、41日分の書く対象の量も多く、考えるだけでぞっとする。いつになったら終わるか見当がつかない。
2014年7月
第1部 徳島県[阿波の国・発心道場]23札所 約220㌔行程
前日 2013年3月10日(月曜日)
夜、最寄駅からJRで東京駅に向かう。
菅笠は新聞紙で包み、雨除けの笠カバーをかぶせた。長めの杖も新聞紙でくるんだ。
それでもどこか目立つ特殊な雰囲気なのだろう。電車を待っていると工事のおじさんが興味深げに話しかけてきた。どこかうらやましそうでもあった。
四国へはネット予約で東京駅前から徳島までバスで行くことにしていた。費用が1万円と安く、また、あれこれ乗り継ぎを考えるゆとりがなかったので。
東京駅発の深夜高速バスといっても会社はいろいろで乗る場所もいろいろ。ブリジストン美術館前で少し離れていた。夜間ということもあってまごついてしまった。早めに着くようにした方がいい。
バスは3列のせいか、真ん中ではあったが思ったより悪くはなく、うとうと程度の就寝はでき、翌日、フラフラということはなく歩行に障害とはならなかった。
1日目 3月11日 徳島着
朝、徳島駅ポッポ街アーケードそばに到着、バス降車。四国第1歩だ。 狭いアーケードを通り駅の方に行く。大きな都会だ。
人生、四国で初めての鉄道に乗る(JR高徳線)。ガラガラ。
笠、杖、ザックと荷物は分かれるのでかさばり、4人席を占有。
板東駅に着く。降りたら無人駅でそこで降りてきた車掌に切符回収された。
ネットでしか知らなかった駅をリアル体験することに少し感激。あちこち写真に。
1番のお寺に向かって歩く。落ち着いた街並みでいい印象。
これまで車で来たお寺に初めて歩いて到着。こんな近距離でも歩いて山門に到着するというのはどこか違う。
寺内のマネキンの立つおなじみの駐車場脇の店内に入ってウインドウショッピング的歩行。
が、同じところで購入するのも脳が無いと考えて不足の輪袈裟は近所の店舗で購入。
店の前のベンチで笠、杖、白衣、輪袈裟にドレスアップ。
寺に戻って読経し、いよいよ第二番に向かう。身の引き締まる思いというのはこういうものか。果たして歩けるか、途中で断念することにならなしか、未経験の世界故まったく自信は持てない。
では二番への道はと、きょろきょろ探す。
車と違って一般に目印の位置は低いことに気が付く。
車道と異なる道の狭さ、曲線、土の感触に心地よさを感じることになる。
2番へ
さて、1番以降短い間隔で次から次へとお寺が現れる。
集まりすぎでは?新規に札所を設定するなら当然に見直すべきと思いながら進む。
ただ、事前の予備知識が少なく初めて来た人なら読経その他作法への習熟並びに体調コントロールに資するので(休憩やトイレ)、密集的配置も意義あると思う。
2番から3番へ
1番から離れるほど俗気が抜けてくる感じはする。
のどかな風景、土の道、細くまがった道、どんなところでもいかにも遍路道という道を歩くのは心地よい。
3番 金泉寺 こちらの山門も朱色が目立つ派手目なもの。
3番を過ぎたあたりで外国人の自転車遍路に会う。
フランスの青年二人だ。
パリに行ったことがあるというと嬉しそうにどんな所へ行ったのか聞かれた。
英語でしゃべっていたら日本語で答えた。なんだ。
この先にある3番の奥の院愛染院へ向かう道そしてお寺自体も趣があった。手前の建
物の廊下のようなところにはお茶、コーヒーなどが用意され一休みする人が多かった。
趣のある遍路道を進むと藍染庵があり、その先は果樹園も見えてくる。総じて3番から4番へ向かう道はのどかさがあった。心地よい。
4番
この日、特に印象が強く記憶に残るという寺はなかった。
ただ、4番大日寺の小さ目な山門への参道は両脇にほっとするような庶民的な植込みがあって好印象が残る。
後で気が付いたことだが、るるぶ「四国八十八か所」(2011年12月)第1ページの大きな写真はこの山門だった。鐘楼門と言うらしい。確かに2階に鐘が見える。
<「四国遍路 救いと癒しの旅」真鍋俊照(NHK出版)>について
後になって(2014年6月)目にした本である。
2010年4~7月、NHK第2ラジオでの放送テキストをベースにした本とのこと。(そんな放送は知らなかった)
氏は4番札所大日時(だいにちじ)住職であることが印象深い。2012年8月の発行なので私はその7か月後寄っていることになる。寺内ですれ違っていたかもしれない。
札所であるお寺の人、いわば内部のプロの手による本なので、単なる遍路体験記録本では読みえない内容が多い。
真言密教の教義上のこと、遍路の歴史など内容は広範に及ぶ。頼富本宏氏の本同様読む価値は大きいと思う。1939年生まれの著者は1961年(昭和36年)、今のブーム以前に歩いているのでその点での記憶や感想に興味深いものがある。
ただ、性善説に立脚し、業界内部の人でもあるので、現在の在り方への批判的トーンはない。その点は一般素人による遍路日記の方がストレートだろう。
5番 地蔵寺(ジゾウジ)4番から2キロ30分の道のり。
五百羅漢で知られるが、なぜかひっそりとして印象が薄い。
6番 安楽寺
1日目は6番か7番で止めておいた方がいいというのがネットや書物での先輩諸氏のアドバイスだ。
私も前夜が夜行バスなので眠れずふらふらかもしれないと、その意見に従って6.安楽寺の宿坊に宿を予約しておいた。
宿泊予定の6番.安楽寺にはまだ日の高い 頃に着いてしまった。
まだ、半日残っているではないか。初日を無事歩けたのは嬉しいがいくらなんでも早すぎる。
そこで荷物を置いて次の7.十楽寺まで行くことにした。往復の歩きと寺での読経、納経時間を入れても戻った時間14時過ぎだった。
<宿坊に泊まること・1日を振り返って>
生まれて初めての宿坊だ。
今、鉄筋コンクリートのホテルのような建物だが、宿坊としての歴史は古いらしい。
個室なので助かる。気兼ね不要だし、ザックの荷物を畳に広げて整理できるし。
洗濯、入浴、食事など一つ一つが物珍しい。
洗濯ものを室内で干す写真を撮った。意味のないバカげたこと、と当時は思ったが1年半過ぎると白衣の下に何を着ていたいたかもう思い出せない。その手掛かりとなる(歩行時の気温を知る手掛かりにもなる。記録写真を撮りすぎて困ることはない。
宿坊としての6番.安楽寺は悪くない。焼山寺で同室となった15歳の少年君も同意見だった。7番の宿坊より少しだけ安いのも利点かも。
今日は歩き始めてすぐ住宅街の小道で年配のご婦人に呼び止められ、お接待をいただく経験もした。
嬉しくも実りの多い1日であった。
<記録と充電>
旅の記録の生命線ともいえるカメラ・スマホの電池充電も行った。結局帰宅前日まで規則正しく毎日行うこととなった。小さいとはいえ充電器2個の携行は無駄な負担。何とか1個の充電器で複数の器具を充電できるようにならないものか。
7番 十楽寺
6番同様、山門は中国風、竜宮城的雰囲気を持つ。
右側の洋風建物は宿坊。寺院としての景観にプラスとはなっていない。
宿坊は大きい。喫茶店の看板も見えたような。
初日、ぜひとも宿坊に泊まりたいとしても6番、7番どちらかには泊まれよう。
2日目[3月12日] 6番安楽寺から11番藤井寺まで 宿泊:旅館 吉野
6番安楽寺を出て、昨日納経を済ませた7番十楽寺の前の車道を進む。
御所大橋を渡る。
進行右手に高速入り口が見える。土成ICだ。
間もなく小さな公園のようなところがあり、三木元総理の銅像があった。三木さんの故郷が四国というのは知っていたが、その具体的場所がここら辺「御所」がだったのだ。道なりのそばに生家があったらしいが見落としてしまった。
ほどなく、雰囲気の良い立派な山門に出会う。
8番熊谷寺の仁王門だ。
人家の少ない田野にポツンと建っている。
メインの寺伽藍まで結構歩かなければならない。が、この離れていることが火災の難から生き残った理由のようだ。
東大寺焼き討ちと正倉院の関係に近いものを感じる。
これって、重要なことだ。昨今流行のコンパクトシティー構想はこの点危ういものもあることになる。
9番法輪寺に向かう。
田畑が多くなり、遠くには山も見える。
平地の一角に木々に囲まれたお寺らしきものが見えてきた。
あれがそうなんだろう。
周りの風景に囲まれながらだんだん目的地に近づく、という間を愉しめるのが歩き遍路の醍醐味だと思う。
車だといきなり門前の駐車場に着いてしまう。
[下左2枚は法輪寺へ向かう途中、右2枚は山門の風景=外からと内から]
10番切幡寺へ向かう。
小豆洗大師や風情のある民家を目にしながら歩く。
切幡寺への入り口のある四つ角にぶつかる。
入り口には大きな石柱が立つ。
一目で狭い道であることがわかる。車で行く人はここからとても神経を使うことになる。
切幡寺へ行くとまたここに戻ってくるので近辺のお店に荷物を預ける人が多い。
そういう話を他の遍路に聞いて石柱反対側のお店にザックを預けた。
長い階段が2か所に分かれてある。ちょっとした山登りとなる。
高い大塔のところまで行くと見晴らしが良い。
11番へ向かう。
切幡寺の長い階段を下り、入り口四つ角のお店に預けていたザックを背負い、11番に向かう。
平坦な住宅地に何番目かの四国八十八か所遍路小屋プロジェクトに立脚する休憩小屋があった。
何時もながら立案者歌一郎氏のワンパターンでない設計と丁寧なつくりに恐れ入る。簡易水洗トイレと手洗いの水まで用意されている。野宿の方には願ってもない施設だ。
間もなく途中よく目にした看板のうどん・旅館八幡にぶつかる。ここは食事の店にもなっており丁度時間もよいのでここで昼食とする。
安く、内容もよかった。
88番を満願した人が1番に戻る際の宿とする人も多いようだ。
そこを出て、初めて郵便局でお金を引き下ろすことに。
ただの郵便局なのに格別な気がするから不思議だ。
途中からなんとなく道ずれになった岡山の男性Aさんもそうした。
とても広い河原に出る。河原と言っても途中に陸地的なところもありこれまで見たことがない光景だ。
途中歩いていると野良犬がよって来たりしてなにやら読んだ風景だ。
風も強く、寒い。
渡りきった土手に休憩小屋もあったので二人でしばし休憩。
Aさんは72歳とか。背が高く歩きも早く信じられない。11回目とか。
始めは車で7回まわったそうだが、雨の中、笠を手で押さえながら前かがみになって
歩く姿を見て、耐えられなくなって歩き始めたとのこと。
その気持ち、よくわかります。
11番 藤井寺到着
開基は弘法大師だが、長宗我部に焼失されたのを臨済宗の僧に再興されたこともあって臨済宗妙心寺派。
無事二日目の歩き(お勤め)が終わった。
明日は早くも歩き遍路にとって山場と言われ、脅かすような説明も多いお遍路ころがしを経て、焼山寺に向かうコースだ。
あそこが焼山寺への登り口だと教わる。
既に暗くなりかけているのに、これからその登り口に入るという若い女性に驚く。
野宿で、しかも足を痛め、引きずるような歩き方なのに。
よっぽど何かがあるのだろうか。
今日の宿吉野へ向かうため山を少し降り、戻る。
、
3日目[2013年3月13日] 旅館吉野屋⇒遍路ころがし⇒12番焼山寺[宿坊泊]
遍路ころがしを経て焼山寺へ
吉野家は評判がよく、満席で泊まれないこともあるようだ。泊まれてよかった。
同宿の人、すなわち岡山の11回目の方、大阪の方と3人で記念写真を撮って7時ころに宿を出た。
昨晩、夕食の席にいたご婦人[四国在住の区分打ち]は遍路ころがしに時間をとられることを想定して朝食抜きで出かけた模様だ。
昨日見た遍路道ーちょうど縦走登山登り口といった感じーに入り、登り始める。
確かに山登りだ。慣れない人は大変だろう。
高齢(80歳前後?)の白装束に身を固めた御夫妻が苦しそうに坂道道端に休んでいた。残念だろうけど無理なようだ。
この登りで後々会うことになった秋田県の男性二人組も少しバテ気味で遅れがちなので抜かせてもらった。
目印となるポイントとしては登り始めてほどなく端山休憩所があり、その先に見晴らしの良い展望台[写真撮影]、長戸庵と続く。長戸庵では昨晩旅館吉野に泊まった方々に追いつき、ちょっとした同窓会となる。その後,柳水庵、一本杉庵(浄蓮庵?)と続く。
なお、これらの名称は今になって地図などを見て初めてわかったもの。
歩く前、歩いている最中は調べるゆとりはなく受動的に遭遇しているという感じだった。
特に柳水庵あたりの3施設はどうなっているかわからず、倉庫のような施設(ただし石仏らしきものがあった。これを奥の院という人もいて不明)を柳水庵と誤解してしまった。その少し先の下ったところが柳水庵[無人]で、さらにその先、舗装道に面してあるのが宿泊もできる地域の人が作った接待小屋である。
少々古い遍路日記には柳水庵に泊まったことが記してある。手元にある32年前[1982年]の山と渓谷の別冊「チャレンジザ88」には柳水庵の主とのやり取りが書かれているが、接待小屋の記載は全くない。
一本杉庵(浄蓮庵)から焼山寺へ
一本杉庵とのみ、あるいは浄蓮庵とのみ書く資料があってにわか勉強もしていなかった当方としては混乱してしまう。特に地図上での記載は用語の統一をお願いしたいところだ。
ここから[H745m]、左右内[そうち。H400m]まで下ることになる。300mを超える下りは登りよりはるかに膝への負担となる。
視界に入る民家が美しい。道から見える渓流のなんときれいなこと。
四万十川源流あたりよりはるかに美しい。
四万十川はその魅力について、とかくメディアで過剰言及されているように感じられる。広すぎて間延びしている感じを受けることも多い。
そして下りきったらまた焼山寺までちょうど300mの登りとなる。
まさに縦走登山だ。どなたかがスペイン巡礼よりこの点[登山の要素があるところ]が厳しいと言っていた。
12時には着いてしまった。休憩時間を入れて5時間ほどだった。
この時間に着いた人は先に進むのが普通のようだが、宿坊に予約してしまっているのでそういうわけにはいかない。
とりあえず、納経を済ませたが、宿坊への入室はまだダメ、と言われ、待つことに。
境内は広く、整備されている。参拝客も多い。
だいぶ待って境内裏に位置する宿坊室内に入る。裏の崖に面しているようなところに立地されています。
廊下に面する広い、古めかしいふすまの部屋に入る。山口から来たあごひげの男性Aさん(永瀬さん?)と相部屋。
肌寒く、暖房は石油ストーブ。[天気予報によるとこの日の気温、と言っても平地でしょうけれど最低7℃最高22度]
洗濯機は室外にあり、無料で使えるが乾燥機はない。時間はあるので洗濯し、物干しで干すが、その後雨も降ってきたので取り込み室内石油ストーブのそばで干す。主婦っぽい。
後から女将がやってきてもう一人同室で、と言ってきた。15歳とのこと!
えーと思ったが入ってきたのはがっちりした坊主頭の少年君。
中学と高校の間のようなもの、といったので非行で中退かなと思ったが、何のことはない。中学3年生で4月から高校生になるというだけのこと。そうだ今は3月中旬なんだ。
初めての知らない人との相部屋、しかも3人とは。
当初はイマイチに思ったが目的=遍路旅が同一なためすぐ打ち解けた。
そうなると相部屋は面白い。少年君は橋本市のお寺のお坊ちゃま君。政治的意見もかなりしっかりしていてなまじの大学生以上だった。年齢差を超えて対等にお話。
7万円をもらって歩けるだけあるくとのこと。中学生で偉い。携帯は所持禁止されているので持っていないと言っていた。微笑ましいが宿の予約はどうするのだろう。
そのうちこれまで出ていなかったスギ花粉症の症状が猛烈に出てきた。なにしろ、一日中杉林の中を歩いてきたのだからしょうがない。
1月分の薬を持ってきたが、テイッシボックスを抱えて鼻水対策に終始することになってしまった。不快さを与えてしまったことだろう。
少年君には自寺には、文化財となっている由緒ある古い仏像が二体あること[四国のお寺よりよっぽど内容が在りそう]、それでも家業のお寺の経営が大変なことを聞いた。
Aさんは山口県の人、そういえばあごひげといい、どことなく山頭火に似ている。
家業は隠居の様子。ぜんそくの持病をかかえながらも車と歩きを併用して行ったり戻ったりの独特の遍路をしている。
もう一つ面白い経験をした。きつい方言、訛りというのは東北と鹿児島だけかと
思っていたがそんなことはなかった。仲間同士でしゃべるような口のきき方をされると山口弁も判読不明か所が多かった。Aさん自身山口県内部でも地域によってはずいぶん言葉が違い、わからなくなることがあると言っていた。
こういう話を聞けることになる相部屋は面白い。
相部屋でなくても普通の遍路宿なら2回の食事の時間にいろいろ打ち解けた話ができるので有意義だ。
これがビジネスホテルだと自由気ままに過ごせるが、朝まで誰とも話をすることがなく孤独を感じることになってしまう。
翌朝、お金が残り少ないという少年君に大人二人で朝食のご飯でおにぎりを作るよう教唆。
4月から高野山高校に行くそうだ。将来いいお坊さんになるでしょう。
何時のころからか宿の食事を写真に撮るのが流行している。あまりいい趣味とは思えないが、遍路宿の朝食がどんなものか知ってもらうためあえて撮りました。
この程度なので近所にコンビニや定食屋があるなら早立ちできるメリットもあるので朝食抜きも一つの考えです。
経費節約の点からそうしている人もいます。
4日目[2013年3月14日木曜日] 焼山寺宿坊⇒13番大日寺⇒14番常楽寺⇒13番門前
かどや泊まり
13番大日寺に向かって出発。
すぐ、境内内で13番大日寺まで20.5㌔の石柱を見る。
間もなくエピソードで有名な衛門三郎ゆかりの杖杉庵に着く。
言うことを聞いてくれなかったからとはいえ仕打ちは厳しすぎるのでは?
途中の果樹、その下の道、民家の軒先を通る道と心地よい。
木の花は何?モモかさくらか?
かんきつ類を売っている無人販売所があったので購入したが傷んでいた。
見晴らしの良い36号休憩所があった。階下にはトイレもある。
できたのは古くないらしく古い地図には載っていない。
結構歩き、合流点に出る。
振り返ると神山町役場へのルートが案内されている。
焼山寺から表示に沿って歩いただけだが、神山町役場のある中心部を通るコースもあるようだ。昔はそうだったのかも。
<神山町のこと>
ところで、歩いているときは全く意識に登らなかった「神山町」だが、2014年、やたらにメディアで耳にした。FM放送JWAVEでも津田大介氏が町長と話をしていた。何でもネット環境が良く都会のIT企業がここに拠点を移して仕事をしているのだとか。低費用、よい環境下で生活できるのなら越したことはない。
徳島刑務所[ここは神山町を離れて徳島市]の表示のある道[21号線]を通って風力発電装置もある休憩小屋「おやすみなし亭」に着く。
立派な建物で飲食物の用意してある。
謹んでいただき、休む。
やっと大日寺に着く。だが、街の中、広くない一般舗装道路の前のせいか境内は狭こましく、雰囲気に乏しい。
あの写真家の言葉を借りれば空っぽという印象だ。
道路の反対側にあり、歴史的にも因縁がある一宮神社の方が趣がある。
教義の哲学性、国際性の点から仏教の方が格上とみるのが一般だろう。だが個々の寺を見ると宗教性より俗物性が勝っていてがっかりするところも少なくない。
このお寺付近に宿の予約を取ってあるが、時間は14時台とまだ早く、もったいないので一つ先まで行って納経を済ませることにした。往復5キロ、1時間ちょっと
なる。
14番 常楽寺
鮎喰川にかかる大きな一の宮橋を渡り、どちらかというと住宅地的なところを通って到着。お寺付近は、平穏・のどかという感じだが、中に入って目にする岩盤が露出している境内が記憶に残る光景となる。
戻って今日の宿かどやに入る。
なんと旅館吉野で一緒だった7回目の男性[先達?]もいた。
この方、慣れているせいかよく話す。まだ先の20番鶴林寺に行く際の拠点となる某宿について酷評していた。
宿のおかみも同じ意見のようで、ネットで酷評されていて商売に困るのではなかろうかと言っていた。
なお、ここには、名西旅館と角や旅館が近在していてどちらがいいかわからない。次、来るとしたらかどや意外にするつもりだ。
5日目 2013年3月15日金曜日 13番門前かどやから18番恩山寺まで
15番 国分寺
13番門前「かどや」を出て、昨日納経を済ませている14番常楽寺の前を通って15番国分寺へ。
裏道のせいもあるが道幅は狭く、車の人は神経を使う道だ。
平地であり、向こうに屋根が見えてきた。この感覚は法輪寺に向かう時に似ている。
約1k、15分の歩きで国分寺の山門到着。なかなか風格がある。
当時のものは消失しているとしても、古く、聖武天皇の命で建てられた歴史と由緒はここら辺の他の寺院と異なる雰囲気を持つ。
地名も14番から17番までは徳島市国府町である。
宗派は曹洞宗とのこと。これについて、素朴な疑問を抱く。遍路のお客(参拝客)を考えると必然としても異なる宗派の開祖を祭る太子堂を設置することに心中穏やかでないということはないのだろうか、と。
納経所は境内端の方丈内にある。雰囲気の良い小路を少し歩く。朝早いせいか閉まっていたのでブザーを押して墨書きと押印をお願いした。
近所に徳島市立考古資料館があるらしい(無料)がそのゆとりはない。付近の縁のあるところをすべて見て回るには車遍路が向いている(バスもむりだろう)。
第16番 観音寺(カンオンジ)
昔の本では田んぼの中の道を歩くとあるが、今は殺風景な広い道192号沿いに歩くことになる。早く192号を渡って裏道を歩いたほうがいいだろう。
入口道路に並ぶ石柱が印象的だ。
街中のとても小さなお寺という感じだ。ここに比較すれば寅さんの葛飾柴又帝釈天はかなり広いことになる。
訪れた多くの人が小さいと書き、それで終わる。
しかしそれだけではどこかもやもや感が残る。
今になって(2014年9月)、古い本を読んで納得することとなった。
<第16番 観音寺(カンオンジ)について>
「死に装束の旅」(1977年中国新聞社)で水原史雄記者はドキッとするような著述をされている。恐らく絶版であろうが、人の目に触れる価値があると思うので少し引用させてもらう。(以下引用)
有力なスポンサーを失った古寺の生き様は哀れである。黒っぽい2階建ての鐘楼門が通りに面して建つ。大正12年5月に建てられたこの門の両サイドに、当時の寄進者の名と金額を刻んだ石標が石垣代わりにずらっと並ぶ。「金三拾円」が大部分。門を建てるに当たってのなりふりかまわぬ息遣い伝わってくる。それはそれでいい。とにかく寺を支える信者があったのだから。今はスポンサー不在。鐘も戦時中に供出したまま。門をくぐると目の前に本堂。境内は狭い。
この本堂の修復をした昭和29年には、すでに寄進者はろくろくいなかったらしく、わずか千平方メートル足らずの境内の内、門のそばの空き地約百三十平方メートルを売って修復費用に充てる状態となる。今、電気屋と菓子屋が境内に食い込んでいる。
檀家はないしな」本堂の左の納経所で坂東弘瑞住職(49)の表情はさえない。「この庫裏の屋根も傾いてきたが、何せ先立つものがなくては」住職夫人もうらめしそう。それが異口同音だからやりきれない響きがある。頼りはお遍路の納経料。「それがなあ」と住職夫人はいう。「1番から10番までの十里十か所と違って、ここらは“本四国”のお遍路さんだけ。納経も少ないでなー」
(略)
それにしてもお遍路とともに歩む札所の寺運衰退を、因果応報の鏡に照らした解釈が聞かれないのはどうしたことだろう。「本堂の位置はその昔,山門で、本堂はずっと奥にあったそうだがい」住職の言葉にふっとそう思った。
第17番井戸寺(いどじ)
3キロ45分の旅となる。
懐かしい。去年、車遍路で来て駐車場に車中泊させてもらったお寺だ。
車で来るとつい、広大な駐車所からトイレの脇を通っての裏口入場となってしまう。
正門である大きな仁王門左隣には小さな遍路宿があるのも当然ながらそのままだ。
境内の施設は宿坊も含めて立派だ。
去年、宿坊や隣の遍路宿でちゃんとした布団で眠れる人をうらやましく思った。
<歩き遍路と車中泊遍路>
車遍路を安易な遍路と見る向きもあるが、日程と費用の制約のある中、全行程を車中泊で過ごしたものとして決して安易ではなかったと申し上げたい。
寒さ(夜はエンジン停止)、風呂に入れない、着た切り雀、コンビニでの粗食、狭い車内での仮眠で蓄積する疲労は、毎日、入浴し、刺身を食べてきれいな寝具に包まれる歩き遍路より厳しいものもあります。
第18番恩山寺
13番から17番井戸寺まで寺間距離は短かったが、次の恩山寺までは20キロ・想定時間5時間と長くなる。この日は30キロくらいの歩きとなるわけだ。心するところだ。
地図を見ると12番焼山寺から17番までは徳島に向かってのUターンとなり、そこから徳島の中心市街地を通って南進となることがわかる。
中鮎喰橋を渡る。
JR徳島線を超え、徳島大病院入り口を目にしながらだんだん徳島の中心地に進む。3月11日夜行バスで徳島駅に着いた見としては変な感じがする。ビルの林立する都会徳島の広い大通りをだらだら歩いていると場違い感を味わう。いつも目にしている遍路道の誘導矢印も見えなくなり、心細くもなる。
中心部を過ぎ、勝浦川橋[241m]出て、これを渡る。
川を渡ったあたりに立派な露ケ本遍路休憩所があった。立派すぎ、整いすぎて落ち着かない感じも。
15:30頃にルートの途中にある宿に着き、早いと言われた。山越えもできるペースとか[峠越えレベルですが]。
確かに4キロ1時間で宿坊のある18番立江寺に行けるのだ。そうした方がよかったのか、余裕を残してとどまってよかったのか、わからない。
時間があるので荷物を置いて納経に行く。
立派というか古く独特の感じの山門がかなり前にある。この中をとおり、これに続く土の細い山道を登る。左側にある舗装道では味わえない。
肝心の納経帳を忘れ、戻ることに。急ではないが標高78Mの登りであり負担は負担。幾つか生じたミスの一つだ。
6日目 2013年3月16日[土]
民宿ちば⇒立江寺⇒ふれあいの里坂本
19番立江寺へ
6:55頃出発[6800円]
民宿吉野でご一緒した大阪の男性も宿泊していたが、どうやら不調で1日停滞したいような意向であったがそれも断られ、電車で帰るとか言っていた。気の毒に。
ただ大阪は近いので関東の人ほど精神的傷は深くなく済むのではなかろうか。その気になれば来やすい近さだと思う。
牧畜小屋の合間を縫うような細い道も通る。荒れていて迂回するところ、義経ゆかりの小さな竹藪を通る道[鶴巻坂]もあってそれなりの趣はあった。
お京塚の前に出る。言い伝えは心の滋養にならないだろう。
寺に8時ころ到着する。1時間ほど、歩いたことになる。立派な構えだ。割と栄えている感じの町の中にある。JR牟岐線たつえ駅にも近く昔から栄えているのだろう。
境内中に入ってオヤと思う新しめの石碑が目に入った。
慶祝 秋篠宮 悠仁親王様御誕生
平成18年(2008年)9月6日とある。
そうだ、誕生した当日、その近くに私はいたのである。南麻布の有栖川公園やドイツ大使館の近くに有名な愛育病院があるが、そのそばに勤務先があり、朝出勤すると付近は警察・報道車両,警官、報道関係者でごった返していた。新宮誕生から間もなかったのである。四国の地でその記念碑を見るとは。
このお寺の貫主庄野光昭氏が高野山真言宗務総長をつとめていたことも関係あるのかもしれない。お印 高野槇とも書かれていた。
その記念石碑を見てからほぼ1年半たつ今日、新聞に大きく悠仁親王の記事と写真が載った。今日(2014年9月6日)で満8歳になったとのこと。早いなー
立江寺を出たところで秋田2人組に出会う。元気そうで何より。
<立江寺から宿へ>
28号線[旧道か?]を歩き続けると休憩できるプレハブ小屋があったので入る(10時ころ)。
法泉寺バス停のところだ。中に25キロの荷物を担いで野宿遍路している男性Mさんがいて雑談。
<鶴林寺と宿泊先>
Mさんはアル中だったというが感じのいい人。話題になったのが今日予定していた鶴林寺登山には場所的に便利な所に位置する宿Xのことだ。
評判が悪いから可能なら変更した方がいいという。かどやで聞いた2人と合わせて3人となる。無関係の複数の人が同じことを言う場合、それは真実に近いと思っている私なので変更を考える。
問題は変更先だ。そばには他に宿がない。地図にも載っていない。しかしそこから結構先になるが公営ともいえる施設があって車で同じポイントまで送り迎えしてくれるという。「かどや」で7回歩きの先達さんが口にしていた宿だ。
それが可能なら自分に課した行=全行程歩くことに反しないことになる。
携帯で電話したところ宿泊可とのこと。嬉しい。Xには断りの電話を入れて一件落着だ。
法泉寺前を出て、道路は28号から22号に合流。少しして小松島市から勝浦町となる。
勝浦という地名は知っているだけで和歌山県、千葉県にもある。ここ、徳島県勝浦町はひな人形の陳列にとても一生懸命で、その点では千葉県勝浦町に似ているところもある。
勝浦川に沿うように通る16号を進むと道の駅ひなの里勝浦に出た。
ここには遍路小屋もあり、野宿遍路に活用されているようで夜具類も見受けられる。鶴林寺のふもとであり、食事やトイレも利用できるなど利便性の高い小屋だ。都市部だったら利用され過ぎて別の問題も生じよう。上の地図参照。
ふれあいの里坂本は頼めばここまで来てくれるかもしれないが歩き遍路として安易さは避けたいので、あえて、鶴林寺登山道入り口より1.5K先の横瀬橋まで行って電話をかけて待つことにした。そばに新しい交番が立っている。
<ふれあいの里さかもと>
ほどなく迎えの車が来た。車に乗っていても結構な距離であることがわかる。
着いた施設は元学校。外見はそのまま、中身はうまく宿泊施設に改造されている。
泊まることになった部屋は元校長室だ。
鉄筋コンクリートの建物ってこんなにがっちりしているんだと改めてその安定感を認識(遍路宿との差異)。
ふれあいの里さかもとは単なる宿を超え、全国の地方にとって参考になるいいものをたくさん持つ。
もてなしのこころ、地域住民で何とか盛り上げようとの共同意識、住民自体も利用する施設であること(入浴や食事)など。
評判がいいのもうなづける。食事もよい。
<ひな人形と森本家>
まだ、時間も早く体力的にも余裕があったので資料をもらって散歩に出かけた。これがとてもよかった。
道路縁の家々が競い合うようにいろいろ工夫してひな人形を飾っているのである。秀逸、なんとおしゃれか。3月という季節はこれが見られる点でもよかった。
青山・表参道あたりの裏道にこういうのがあったら世界のニュースになるだろう。
展示の一番奥に位置する森本家が、また特によかった。
京都を思わせるような雰囲気のたたずまいで、しっとりしたお庭、中庭。小さいながらも趣味が良い。
奥様は品よく優しそうな方で、庭に人形を飾っている点でも京都アイトワ(嵯峨野にある庭(非公開)+喫茶店で、元 短大学長の夫と人形作家の奥様が経営する。 )に似ている。
庭の完成度、ひな人形のディスプレイの完成度ともアイトワを上回るだろう。
倉本が北海道を舞台とするドラマ「風のガーデン」で使った庭園は今や全国レベルのものになっているが、この家も工夫すれば全国レベルのものになりうる。
以下は森本家の写真。
7日目(2014年3月17日) ふれあいの里坂本⇒20番鶴林寺⇒21番太龍寺⇒22番平等寺⇒門前の民宿山茶花[泊]
<20番鶴林寺へ>
朝、昨日歩いたところまで(登山入口)車で送ってもらう。同乗は秋田県の二人グループ、愛媛の方、それに私の4人。
秋田の方は昨日鶴林寺まで行っているとのことでそのまま車で鶴林寺へ。
残る二人は小さな、あまり美しくない川の脇を歩き始める。
すぐに見事な茅葺の遍路小屋に出会う。遍路小屋にはもったいないほどの凝った小屋だ。
トイレもあり、野宿もできよう。考えてみると鶴林寺へは宿に泊まらなくても道の駅とここ2か所で屋根付き野宿ができるわけだ。
水吞大師という名称と歴史のわりにはささやかな所をを経て 頃標高500mの地にある鶴林寺仁王門に到着した。
確かに汗をかく登りであるが昨晩は良い環境で眠れて疲労は回復している。山登りと考えれば普通の登りだろう。秋田の人に追いついた。
20番鶴林寺から21番太龍寺へ
20番鶴林寺から21番太龍寺へは高いところでの横移動ではない。標高500mのピークを40mまで下り、また520mまで登る2ピーク登山となる。
鶴林寺を下る。283号を横切り、歩く遍路道にはのどかな風景、民家も見えてくる。
下りきってまた車道に出る。間もなく小公園のような一画内にある休憩所に出会う。、疲れもあるので休憩。
木々には春らしい花が咲き始めている。
そこを出て少し歩くと那賀川にかかる水井橋[すいいばし]。橋から見る河原がきれい。
いつの間にか歩く人は自分一人ですこしさびしい。
渡って、若杉谷川沿いの道に入る。ハイキンコースにもなっているようだ。東屋もあった。奥入瀬渓谷を思いだす。
川を離れ登山口あたりから急登が始まる。
さすがに1日2登目となると疲れが出てくる。
やっと山門が見えるところまで来たが(11:26頃)、思わずその足元の階段に荷を下ろして
小休止とした。
お寺は西の高野山と言われるだけあって立派でそれらしい伽藍配置となっている。
昼食休憩後12:20頃太龍寺を後にする。
<太龍寺を下る>
ちょっと先にある舎心ケ嶽まで行く気にはならなかったが距離は0.7㎞であり、行けばよかったと今にして思う。
寺から200m高度を下げたところから車道となるのであとは気楽な下りとなる。
ただしそれは歩きの場合。ヘアピンカーブが多い狭隘道路となるので車の場合は大変神経を使うところだ。
龍山荘という鉄筋コンクリートの宿もある。遍路専用ではないようだが。
だんだん高度を下げる。
阿瀬比から先はまた、遍路道に入る。大根峠[200m]もある風情のある道だ。
竹藪が美しかった。京都嵯峨野の竹林のような人ごみはなく、歩くのは自分一人というのはなんと贅沢なことか。
下に放牧されている牛が見え、ほっとする。
このように山を下ってだんだん人の気配が感じられてくるというのは、北アルプスの諸山を下山していて上高地に近づくときの感覚に近い。
22番平等寺hが遠くに見えてきた。考えてみればすごい名前だ。
<22番 平等寺と宿 山茶花>
平等寺は配置デザインがよくできている。山門を入ってまっすぐ先に階段があり、その上の小高いところに本堂がある。当然登れば見晴らしがいい。パリやサンクトぺテルブルグの離宮で見た光景を小さくしたような感じもする。
今日の宿は山門の文字通り右隣にある山茶花。この名前も面白いが、評判もいい。
洗濯量はお接待で無料。
雰囲気が昔の学生街の喫茶店みたいでくつろげる。
ノートを拝見するとちらほら有名人のお名前も。
8日目(2013年3月18日) 22番平等寺門前の民宿→23番薬王寺→日和佐駅前ビジネスホテル(泊)
朝から雨だった。セパレートの雨衣を初めから着用。
女将に玄関で写真を撮ってもらう。
玄関左手に基礎工事がしてある。増築するとのこと(平屋)。評判良く、お客も多く泊まれて喜ばれるだろう。
ほどなく月夜御水庵(つきよおみずあん)という大木の多い趣のある一角にぶつかる。ざっと見学して進む。
釘打橋(301m)は釘なのにカネウチバシと読むのは何でだろう。と思ったが軽率だった。釘ではなく鉦という字であった。
福井トンネル176mを通った後、ルートは山コース(55号)と海コース(25号)に分かれるが後者を選んだ。その理由は思い出せない。
この後雨風が強くなり、海に面するところでは特に強風となり菅笠はかぶっていられず、また雨具の頭巾さえ脱げそうになるので先端を手で押さえながらの歩行となった。片手で杖と菅笠、他方の手で頭巾を抑えて前かがみで歩くというのは楽ではない。車も極く少数しか通らなかったが、車内からどう見えたのだろう。
海側と言っても山越えの部分もあり、山座峠の小さな休憩所にはほっとした。
また、海まで下がり日和佐に近づくにつれ雨も弱くなりほっとした。
そんな折、声をかけられた。お接待だ[日和佐木偶人形館内]。びしょ濡れの雨具を脱ぎ休ませてもらった。お昼も食べていないんでしょうと即席ラーメンまで作ってくれ、温かいぬくもりにただただ感謝。
そこを後にすると23番薬王寺はもう近い。結構にぎやかな一角だ。吉川英治の作品の舞台であったらしい。が、今日、氏の作品を読む人は一体何人いるやら。
納経は2か所で可能なようで[第1番と同じ]、入り口右手にある建物でお願いしたがそこにいる女性がとても美人で思わず見とれてしまった。
今日の宿はビジネスホテル。初めてだ。
食事は自分で用意しないといけないが、好きな時間に寝起きでき、何回でも入浴でき、プライバシーは保たれ、料金は安いなどメリットもある。ただ、だれとも口をきくことがないなど連続したらやりきれないだろう。
9日目(2013年3月19日)
日和佐駅前BH→(55号線)→牟岐町→鯖大師→海陽町→海部駅近くの民宿(泊)
23番薬王寺から
ビジネスホテル ケアンズは日和佐駅を挟んで薬王寺と反対側にある。
小高い山の中腹に昨日、雨の中納経した高さ29mの朱色の「薬王寺ゆ祇塔」が見える。
薬王寺のパンフレットに次のように書かれていた。
「ゆ祇経の経文には世の中のものみな二つの相対したものからできているが、これが一つになることによって世界の平和や家庭の幸福の基礎があると説かれている。天と地が和合して万物が豊かとなり労使が相い寄って社会の平和ともなる道理である。」
ドイツ弁証法的思考に近いものを感じる。
さて、これから次の24番 最御﨑寺(ほつみさきじ)まで75Kもある。当然1日では無理で、今日は海陽町(旧海部町)にある民宿まで約28キロ歩く予定だ。
歩き出して間もなく一人歩く女性遍路に遭う。おや、7日前藤井寺で目にした傷めた足を引きずっていた女性野宿遍路だ。お接待のビニール袋を手にして飄々と歩いていた。御無事で何より。
薬王寺から牟岐(むぎ)まではどちらかというと山地だ。JR牟岐線と並行するように走る55号線は一本の単調な車道で道に迷うことはない。
日和佐トンネル(690mと長い。マスク着用) 、休憩所、などを通ったり、目にしたりする。廃屋、外国人花嫁の広告もあった。
牟岐川にかかる牟岐橋についたのは10:29。そこから1.7キロ、約30分で県立海部病院など公共施設が集積するむぎ駅に着く。ここら辺の中心地らしい。ここら辺は河口であり、海の気配もしてくる。
<1946年昭和南海津波と牟岐>
これを書き始めた2014年夏、牟岐を襲った過去の大津波について歴史家磯田道史氏が親族の体験に因んだ記事を書いているのを目にした。
「徳島県の牟岐にいた母和子は当時2歳3か月。小学6年生の叔母テルコが手を引いて逃げた。大人の足で230歩先の海蔵寺へ向かったが、途中、二人は離れ離れになった。テルコは、何とか65段ある寺の石段までたどり着いたが、振り返ると「助けて!」と叫びながら子供が何人も流されていく。テルコはしまったと思った。半狂乱になった。」(朝日2014年8.2)
記事に出てくるお寺、海蔵寺を調べたが「四国遍路ひとり歩き同行二人」には出ていない。この本はあくまで八十八カ所巡りに特化しているので無駄な記述は省かれている。が、何気なく街角で撮った案内図にはしっかり記されていた。地元の案内図はどこか違う魅力を持つ。旅館の食事は撮らないが道に建てられている案内図はよく撮る。
牟岐警察署と道路を挟んで反対側にはテント内にテーブルやいすがセットされたしっかりした遍路休憩所がある。
休ませてもらい好物のおやつをおいしくいただいた。ついおしゃべりで長居してしまった(11:08~11:42頃)。この場で厚く御礼申し上げたい。
牟岐を出て福良トンネル(265m)などいくつかのトンネルを通りながら海沿いを通る道となる。鯖大師入口付近は賑やかだった(13:18)。海の光景が好ましい。
途中で55号線は海沿いに進む道と分岐するが、案内矢印に導かれてJR線に沿う山側道を選んでいた。結果的にも良かった。
途中の山道の広いコーナー部分で疲れ、ベンチもないので道端に座っていると、少々くたびれた車が止まり、中から犬とともに女性が出てきた。現金1400円のお接待をいただいてしまった。便所掃除でも何でもいいので働きたいが74歳になるとなかなか働き口はないとのこと。そんな見ず知らずの人から現金をもらうなんて。
目頭を熱くしながら歩きだして43分後、あわかいなん駅そばにある有名な第1号遍路小屋に到着した(15:23)。この小屋を作った女性は90を超える方でご存命かどうかはわからないが、立派な小屋を拝見させてもらった。
かいふ駅そばの民宿に着いたのは15:40。
民宿と洋風居酒屋を兼ねる(これは問題と後で気づく)。外見はともかく中はとても汚い。古いだけならいいが、前の宿泊者が置いて行った私物や消耗品もそのまま鏡の前に残置してあるなど気持ちよくない。
若いアンちゃんが一人でやっている気配。民宿と深夜営業の飲み屋兼業で手が回らないのだろう。
このアンちゃんはかって四国遍路中怪我をするなどでこの地に停滞し、何かの縁でこの地で働くようになったとか。まるで映画か青春小説のよう。
出身地が東京都板橋区の西台か蓮根で、私もそのそばに住んでいたことがあったので四国で東京ローカルの話に盛り上がった。宿は汚いが気はいいアンちゃんだ。
ただ、深夜営業の店にまともな朝食は期待できそうもないので朝食は省いた。
宿代5800円、洗濯・乾燥機各100円、冷房代100円。
阿波の国(徳島・発心の道場)を歩き終えて(総括)
<22番の前と後で違う>
23番薬王寺で徳島の札所をすべて打ち終わったことになる。少なくも1国めぐりができて少し嬉しかった。
ただ、国(県)を別にすると、歩いていて味わい、感じるものは22番平等寺までとそれ以後で大きく異なる。山ないし平地内陸部と海沿いの違いがあるからだ。東京都内からJRに乗っても湘南に近づくにつれ、ずいぶん雰囲気が変わるのがわかるが、それに似たようなもの。
<体調・足の調子>
歩き始めて5日ころ、特に不調や足にマメができることはなかったことを意識した。
よそ様の記録を読むと宿についてから毎日針でマメをつぶして処理をするのが当たり前であるかに書いてあるので逆にこれでいいのかと思ったほどだ。
先達さんに聞くと5日何ともなければこのまま歩けるだろうといわれた。そしてマメができないのは足(体)が出来ているか、靴があっているかどちらかだといわれた。もちろん後者。靴に感謝だ。そして逆にそうならこの調子を大切にしなければと、毎朝足の10本指すべてにマメ、靴擦れ防止のためあらかじめテーピングして出発するようになった。その時間30分と消耗が多いテープを時々補充する手間暇が追加されることになった。
<ザックの背負い方と男の乳首>
最近のザックには中心の肩にかける部分のほかに腰(おなか回り)で締めるベルトがあるのが一般で、私も体にフィットすることから両方で締めていた。しかし、1週間連続歩行しているとそれが体を締め付けるようで我慢できなくなり、腰のベルトはしなくなった。これだけでも楽に感じる。
また、乳首が痛くなり、「男性!突然乳がんを発症して死亡!」などと勝手な想像をして困惑したが原因はザックを背負っての連続歩行で慣れない擦れが原因だったようだ。マラソン選手が男でも乳首にテープを張ることがあると聞いたことを思い出した。
慣れないことを行うにしても1~2日行うのと1週間連続して行うことには相当の差異があることを知った。
<雨と靴>
前述の靴擦れのこともあるが、靴は雨との関係でも重要だ。長きにわたる遍路で雨に遭わないなどあり得ない。本ぶりの雨で靴の中に水が浸入するほど不快なものはない。ゴアテックスのズボンとゴアテックスの靴の組み合わせでスパッツなしでもほとんど水の侵入は無かった。やはり、ザック、雨具、靴の3点だけはいいものにしておいた方がいいと思う。あと荷物の軽量化ね。体力の低下している年配者は特に。
*記録を書くこと
ほかにやらねばならないこともある中、ここまで書くのもやっとでした。修学旅行の3泊4日でも大変ですが、四国遍路の札所数と距離は半端ではありません。おぼろげな記憶と写真などの資料を頼りになんとかまとめました。
1年半後に書くのは記憶の点では不利ですが、事後的あるいは現時点での考察も加えられるのは利点でもあります。
神山町、牟岐の津波とうとう、皆、後で知ったことです。
続く高知の旅はまた、後日に。
なお、徳島の旅も、まだまだ不完全な個所も多く、後日筆を加えられればと思っています。(2014年9月24日)
靴(メレル)、 ザック(グレゴリー)ほか装備一式の写真を添付しておきます。