カメラという機械に頼らず、自分の目というシャッター・レンズを使って脳裏に刻み込む、という考えの人がいる。
その気持ちもわかるが、長大な旅に関する限り疑問だ。
なぜなら、
1 自分の頭は思ったより悪い。すぐ壊れるSDカード・USBメモリーのようなもの
2年前だったか、3年前だったかわからなくなる。
A寺だったかC寺だったか記憶は混濁。認知症同然だ。
誰しも京都の修学旅行で経験していることだ。
2 長大な旅に費やした費用・時間は膨大。周囲に及ぼした負担も少なくない。
せっかくの記憶を大切にしないのは一種、資源の浪費。
企業でも外部研修で受けた成果は会社に戻って還元する(報告会。レポート提出)という傾向がある。
貧弱な頭に残る記憶を言葉で説明するのは不可能だ。写真1枚で家族はどれほど喜ぶか知れない。
どれほど説明が楽になるかしれない。
3 外部発表する場合、文字だけではアピール力に欠ける。
HPでも写真少なくあるいは無く、改行少なく、やたらに文字数だけ多いものもあるけど、これじゃよほど内容がない限り人は読んでくれない。
人に読んでもらいたいとの気持ちがあるなら文章を補う写真の効果を使わない手はない。
4 文化史的価値の点
遍路など所詮遊び、と思う人が多いと思うけど、どうしてどうして。
2泊3日の温泉と違って40~50日の遍路は研究対象になっており論文にしている大学教員が目立つ。 見て!見て!というOL的ブログでもかなり有効な研究材料になっている。その場合写真はかなり有効。たとえば服装の変遷など。
生態学の点、そこまでいかなくても植生上の興味の点からも写真は役に立つ。
たとえば笠松寺の松(白洲正子も著に写真掲載)はもうない。なぜ?と進む。
岩本寺の宿坊では翌朝の勤行時、住職は古い(100年前?)納経帳の写真を使って寺の歴史を説明していた。 写真があればより有効に説明できていただろう。
5 個人的便宜
目的地に着くたびに行程表をポケットから出して到着時間・出発時間を記入する人が散見された(年配の方に多い)。
しかし、これはかなり時間のロスとなるし、一番困るのはそのせっかくのメモがどこかに行ってしまうことだ。
デジカメ撮影はこの点、時間・費用がかからず、整理もしやすいなど最高の記録形態だと思う。