亡き弟子智泉がための逹親の文
「
哀(かな)しい哉(かな),哀しい哉、哀(あわれ)が中の哀(あわれ)なり。
悲しい哉、悲しい哉、悲しみが中の悲しみなり。
悟りをひらけば夢に見た虎におびやかされたり、幻のような象に迷わされることもなく、
この世の悲しみ、驚きは、すべて迷いの作り出すうたかたのようなまぼろしとは知っているけれども、
しかし、今このはかなき世で出会った愛する弟子との死別には迷いの世のかりそめのこととは知りながら涙を出さずにはいられなかったのである。
悟りへ至る大海のような修行の旅、いまだ半ばにしかならぬのに、今私と対になっているともいうべき汝というかじを失って悟りへ向かう、果てしない大空を渡るような旅路で、つがいの鳥ともいうべき汝を、早くも失ってしまったのである。
哀(かな)しい哉(かな),哀しい哉、復(また)哀しい哉。
悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉。
」
青色の字(読み下し文)だと生き生きとしたリズムが伝わり、まさに詩の朗読を聞いているようだ。それ以外の現代語訳(金岡照光氏)は意味はわかるが残念ながらリズムは伝わらない。漱石や子規のように英語のほかに漢文の素養がないと日本の古典は理解しにくい。
といっても全体として言わんとすることは伝わるが。
上の引用はほんの一部。仏典のことはむろん孔子の教えなど当時の広い外国知識全般に通じていることがよくわかる。
空海はこれらの文章を下書きなしに作ったという。
空海の弟子が編纂したこの漢詩文集「性霊集(せいれいしゅう)」は我が国最初の個人の詩文集にあたり、源氏物語や枕草子といった王朝文学の先駆をなす個人の作品集という位置づけになるそうだ。
TVでは当の弟子知泉にゆかりのあるお寺として京都最南端にある岩船寺(真言律宗)とその住職氏が登場していた。私にとっても2度行って、住職と少しお話をしただけに印象深い。 (2015.5.22)