ずっと後になって書く旅の記録と更級日記
2013年、1日も休まず通しで歩いた遍路。
しかし、その記録を通しで書くことは到底できない。
内容のない自己満足の域を超えない代物だが過去の旅を思い出しながら書くのは思った以上に荷が重い。
読みたい人、読んでもらいたい人は特にいないし、何の利益もないしと動機づけも希薄だ。
完成欲くらいか。
時折思い出したように書いている。
年末になってやっと46番以降を書き始めた。
何かの拍子に更級日記は少女時代の旅の記録をずっと後に(当時としては老婆と言える50代に)書いたと知った。
時間がたってから書くことの勇気づけとしたくなった(40年後と3年後の違いだ。)
それで更級日記を読む気になった。
もちろん、口語訳。
訳と解説は構えず優しく書いてくれるお気に入りの竹西寛子さんだ(人柄が好ましい)。
まだご存命だろうか。
更級日記は周辺の些細な事柄も興味深い。
著者菅原孝標の娘はあの菅原道真の5世の孫。名門ではないか。
親族だって一流。
母の姉は蜻蛉日記の作者
継母の叔父は紫式部の娘を妻としている。
でも父は立ち回りが今一つで無位あるいは地方官どまり。一流にはなれなかった。
そういうこともあって東の果てへの人事異動で上総の国司になった父と家族はそろって赴任。
場所は現在の市原市。千葉市の南隣だ。上総の国(千葉県中央部)は当時道の果て常陸の国(茨城県)より奥地とされていたのだ。
(民宿くももで記録を拝見した伝説的姉妹遍路も市原市出身!興味深い。)
そこに3年ちょっといて(10~13歳)京都へ戻る旅が書かれている。
1か所3年位なんて千年後の現在の役人の異動時期とほぼ同じなんだね。
現江戸川(当時の名は異なる)を境に下総と武蔵の国(東京)が分かれるように書かれている。隅田川ではなかったのか?
水流は千年後まるで違っているだろうけど。
その川を松戸から渡っている。松戸と言っても南北に広い。合戦場になった国府台あたりか、あるいは少し北のふうてんの寅さんが愛した矢切の渡し近辺かあるいはさらに少し川上の水戸街道に近いあたりか。想像するのも面白い。
当時の長距離旅行は大変で増水その他で足止めを食うことも多く、その場合、国司やその家族は簡単な屋根らしきもののある仮設住居的なもの(仮屋)を作って待機したらしいが、どんな構造なんだろうか。モバイルハウス的思考が既にあったようだ。しもじもは布的なもので我慢するしかなかったようだが。
内容は50代という書き始めた年齢にもよるが源氏物語や枕草子のようにハイソ世界のちゃらちゃらしたところ、濃厚なところ、才女風のきりっとした思いを述べるというのではない。
夢見る文学少女が京都に戻ってみたものの、父のまたもやの東国への異動(今度は単身赴任)。遅く33歳になってやっと後妻になったが立身出世を祈る夫は信濃の守として赴任後翌年に病死。等々順風満帆からはほど遠い。
孤独な信仰生活に入るしかなかったようだ。さみしいというか現実的な内容でそのことが、かえって作品の価値を高めているように思われる。
2016.1.9 記