23日目目 2,013年4月2日
39番門前民宿嶋屋~宿毛市街~松尾峠経由で愛媛県へ~愛南町~40番 観自在寺~青い国ホテル(泊)
昨夜泊まったのは延光寺直ぐそばの民宿嶋屋。
庶民的な門構えだったが雰囲気は良かった。お客への応対はすべて男性のご主人だった。考えてみればこれまで宿ではほとんど女性が前面に出てきたので珍しく思われた。
このところ世の中、女子力とか○○女子とか女性を持ち上げるような表現がが多いが、それだけ女性の進出がイマイチということの表れであろう。民宿では逆なのだ。
お茶、コーヒーはセルフで自由に飲めるので助かる。この日泊り客は男性3人。お一人は技術系サラリーマンの方で要職についていることもあり区分打ちで回っている。同時に出たが早いピッチでたちどころに遠ざかって行った。
56号をひたすら歩く。
松田川にかかる宿毛大橋を渡ると間もなく大井田病院とその手前に33番遠路休憩所が。
車道に面するところなので少し違和感も感じたが野宿用に布団も用意されていた。
市中心部なのだろう。それらしい雰囲気がある。有名人も輩出しており宿毛の歴史に誇りをお持ちのようだ。松尾峠に向かう概略図を。
遍路道に入る。
地図を見ながら覚悟して歩いているものは何とも思わないが、知らない人が見たらブラックボックスに吸い込まれるような異様なものを感じるのではないか。
古い石像、そして関所跡が。関守の末裔の方が住んでいるとのこと。確かに表札はそうなっていた。
松尾峠付近は結構スペースもあり歴史を感じさせるところだ。ここは歩きでないと味わえないだろう。松尾大師跡、トイレもある。海抜300m。
県境を越え、愛媛県に入ると激変。
道は整備され快適なハイキングコースのよう。富の差か。ただし、関守あとは残っていない。
松尾大師の前を通り、愛南町役場一本松支所の前に出る。確かここでトイレを借りた。
段々雨が降って来、雨衣を身に着ける。
愛知のOさんと合流し、一緒に歩く。彼は足元をスパッツで固め、地図をビニールケースに入れて万全の雨準備。さすがだ。
雨の中40番観自在寺に14:30到着。
ここで秋田のHさんに会う。彼はその場で今日泊まるところを決め、そちらに向かった。ここら辺は旧御荘町の中心で宿泊施設は多い。
私の宿は青い国ホテル。前にみしょう道の駅が見える。
今日は地理のお勉強の1日だった。
足先の手入れと薬類
このあたり、毎朝どういう準備をしていたか、お伝えしておく。
写真のとおり両足すべての指にテープを巻いている。ほぼ無傷なのはこのおかげとなにやら信仰みたくなっている。
が、そのために毎朝貴重な時間が30分も取られてしまう。使わないものも増え、かさばってしまう。
24日目目 2,013年4月3日
40番札所 観自在寺そば愛南町にある青い国ホテル~(56号)~八百坂峠~愛南町役場内海支所~(柏坂)~柳水大師~清水大師~旧津島町~松尾トンネル~馬目木大師~宇和島リージェントホテル
ホテルではPCを借りられたので、3件ほどブログをアップしたりして寝るのも遅くなり
朝もローソンでおろしたりして出発は実質7:30頃と遅くなってしまった。
車道56号を進む。
向かい風が強く笠は手で持つ。肌寒い。
八百坂というすごい名前の峠があったが、峠自体すごいという印象は残ってない。
一時、予約も考えた目立つ民宿ビーチ前を通る。結構標高が高く景色もよい。
ところで、御荘の中心あたり以降、WCは目に付かない。我慢を強いられると思った方がいいかも。
愛南町役場支所の建物が目に入ってほっとする。地図にも建物にもWCの表示が大きくあって困っている人が多いことがうかがえる。
建物内に案内嬢のような若い女性がいたので柏坂のことを聞いたがつっけんどん、面倒くさそうな態度でがっかり。
内海診療所という大きな建物の前を通り柏坂に入る。
野口雨情の歌を紹介する立て看板が多い。ややインフレ気味。
柳水大師着10:55。標高400mと結構高い。傾斜が緩くないことがうかがえる。休憩所あり。
1時間ほど歩いて清水大師に(11:22)。標高は460mとなる。
そのあとに茶堂休憩所。
樹根というのか太い根がむき出しになっている馬の背状の道がある。
京都鞍馬山を想い出す。東山魁夷の絵にもあったかな。
一方南洋のようなシダに覆われた道もあってこれも興味深かった。
峠があれば麓もある。
降りて里の雰囲気にほっとする。
この開放感もいいもんだ。山登りで下山時に味わうところ。
この先、結構56号を歩き、松尾トンネル入り口に着く。
(松尾という地名が遍路道で複数出てくるので間違いやすい。松尾峠、松尾大師など)
ここで長い新トンネルを通るのか採石場の前を通る道にするかの選択となる。
下の案内図を拡大して見てね。
後者へ連なるところに休憩所があるというので足を踏み入れたが、けばけばしい絵が描かれたブロック作りの便所を見て嫌になって新トンネルを選んだ。
(便所と思ったものは休憩所だった。窓がないブロック作りが休憩所とは!一回りすればよかったのだが)
少なくない後悔の一つとなる。ま、カーボン入りマスク二重の効果確認はできたが。
宇和島市街地に入って遍路ゆかりのポイントとなるのが馬目木大師。
思ったより小ぶりだった。
今日の宿もビジネスホテル。当日の予約を当日午後にしたのは初めてだ(5時ころ)。
宇和島城の屋根が見える。
柏坂峠を経て40キロ近く歩けたのは褒めてあげたいがヘトヘト。
初めてマメらしきものに針を刺して水を抜いた。最初で最後となったが。
宿代5200円。朝、おにぎりをいただけるとのこと。洗濯200円、乾燥100円。
25日目目 2,013年4月4日
宇和島リージェントホテル→龍光院→41番龍光寺→42番佛木寺→43番明石寺
まだ街路灯の照明が残る早朝の宇和島中心地を歩く。
本来なら目の前にある宇和島城を見たいが余裕あるはずなし。
歩いてすぐのところに龍光院がある。
番外(別格)寺院を特に回る予定はないがルート上にあるなら寄らない理由はない。
市内に泊まったのであろう、前を歩く龍光院を目指す若い女性遍路もいた。
場所は市内中心の小高い一等地。建物等充実すぎるほど。
納経所で感激することが。
奥さんであろう「せっかくお参りに来ていただいて本来ならこちらからお茶でも出すべきところですが」と言ってお接待として納経料同額をいただいた。
札所が参拝者が来るのが当然という感じで特権に胡坐をかいている感じであるのと段違い。
安定したポジションは切磋琢磨することを忘れてしまう。
57号を歩いていて遍路小屋があったので寄ってみた(光満21号)。
置いてあるノートで思わぬ収穫が。
一つはスペインの巡礼のこと。いかに便利で低料金で歩けるかを具体的に教えてくれる。
姫路に住む友人も行っているので関心がわく。
もう一つは神戸の坊主頭Tさんが一言書いていたことだ。
28番神峯寺のところでお別れしたのが最後。何日かたまたま一緒に歩くことがあっただけなのにその後の足跡がわかるだけでうれしい。
休憩所のノートは昔々、駅にあった伝言板のような働きもする。
淡々と歩いて41番龍光寺到着。真言宗御室派。
観自在寺から約50キロの道となる。私は約40キロ歩いた地点で前泊、そこから10.8㌔歩いた地点だ。
龍光寺巡拝の後お墓のなかを通って次のお寺42番佛木寺に向かう。この間は2.6㌔と近い。
その途中道端で休む老母と息子だったか、夫婦だったか、その姿になぜか感じるものがあり、思わず写真。
少し話しかけた記憶があるがはっきりしない。
このあたり、道にチューリップが植えられている。チューリップ・コスモス街道というらしく、4月はチューリップ、夏はポーチュラカ、秋はコスモスが植えられる由。
花は好きで、気持ちはわかるがお寺にチューリップはいまいち。
佛木寺(ブツモクジ42番)到着。ここも真言宗御室派。
山門が立派。山門前のバス停兼休憩所も立派だ。茅葺の鐘楼が独特の雰囲気を持つ。
次の明石寺までは、歯長峠を越えて11キロ、3.5時間の道となる。
距離が近いと流れ作業的なものになりがち。
考えるゆとりを与えてくれる距離の長さが好きになってくる。
女性一人歩き遍路の記録
ここで少し横道に。
遍路に行こうとする人は不安があり、ネットの遍路日記を読むことが多い。
行って帰ってきた人も記憶をかみしめ再確認するように読むことが少なくない。
どれを見ても同じではないか、とも思われるが千人千様。感じ方,見方がいろいろでそれを読むのが別な楽しみでもある。
そんな中、女性一人歩き遍路の記録で独特な魅力のあるのが、千葉の姉妹遍路のところで述べた神戸の方。長い記録であることでも有名だ。
もう一人、最近魅力を感じているのが次のブログだ。
http://loiter2.blog111.fc2.com/
この方、2005年秋、47日で歩いた20代。神戸の方と対照的に文書量は少ないがどこか控えめで女性らしい感じのする魅力ある文章となっている。
26日目、柏坂を下ったところでばたっと中断したままだ。
10年のブランクは長いが何とか再開してもらいたい。
佛木寺(ブツモクジ42番)から歯長峠までは3キロほどで遠くはない。
畑の花にほっとする。
送電線手前が峠とある。
道には鎖,ところによってはロープまで用意されていた。確かに急なところもあったがそこまで必要だったかは?
480mという一番高いところに建てられた大きな鉄塔だ。
作るときは道路付けも遍路道の復元も色々大変だっただろう。
そばにある送迎庵(見送り大師)という小屋に並んでいる石仏は集めたものか。
丁度その付近、10人ほどの人が集まって調査らしきものをしていた。
県庁の人か会社の人か、遍路に関心を持っているような人と少し世間話をした。
峠の降り口「歯長峠口(海抜200m)」は小さな要衝。
歯長地蔵があり、その右隣には遍路の墓もある。
珍しくない光景だが考えてみれば、見ず知らずの行き倒れのための墓。石を用意して彫るというのは軽くないことだ。なんでそこまでやってくれるのだろうか。
川を渡ってしばらくして道引大師。手前に立つ石碑が古そう。
歩いていて、とある一般民家の塀にびっくり。自然の大きな石をそのまま使っている。
ご主人が庭に出ていた。注目されすぎて大変そう。
明石寺(めいせきじ)に到着。
建物は古そうで傷みも目立つ。丁度修理に入っているようであちこち工事のシートが多い。
宗派は天台寺門宗とのこと。比叡山とどういう関係か知らない。
建物の壁にアレ!
漆喰でなく杉板の落とし込みか?
追記 天台寺門宗のことを少し調べた。(2015.7.17)
高群逸枝の娘巡礼記と八幡浜
これまで43番明石寺にさほどの特異性というか言及すべきところは無いかに考えていた。
が、そうでないことに。
第1は前述の天台寺門宗のことを考えるきっかけとなったこと。
もう一つ。
九州から船で八幡浜に入るルートで最初の札所にあたることだ(特に逆打ちの場合)。
その一例として高群逸枝の娘巡礼記の詳しい記述が参考になる(岩波文庫)。
逸枝は1918年(大正7年)6月に熊本を旅立ち、7月14日船に乗り佐田岬を通って八幡浜に上陸している。
まず、大黒山吉蔵寺を訪れ一泊の宿を得ているが、当時はそこも37番の札所となっており(岩本寺との両立となっていた。)、その経緯も詳述しており、興味深い。
二日目、明石寺に向かうが、大いに道に迷い、時間を取られ、「ある村を通り、ある川を渡ってしまうと日は全く暮れきった。今宵の宿は ー もう一歩も動けない」
「ああ疲れた。とうとう野宿と決定、少し上の草丘に上がってすぐに横たわる。
こんこんとした深い眠りが毒液のように ー ふと物に怯えたように飛び起きる。顔から手足にいろいろな虫が這いあがっていて不快でたまらない。
それに着物も髪も露でシトシトになっている。
とうとう夜通し眠らないで座ったままで~」
ほぼ100年前の道のわかりにくさ、野宿の厳しさが分かろうというもの。
誰かが言っている。野宿、野宿と言うけれどテントがあったり、屋根のあるところ(遍路休憩所など)で横になれるなんて野宿とは言えないよと。そうかもしれない。現代人は逸枝のような野宿はできないと思う。
話は変わるが、植村直己は驚異的なスピードで北海道最北端から九州最南端まで連続歩行しているがその時の野宿は疲れたら道端で横になるというものだったようだ。
逸枝らの野宿に近い稀有な例だろう。
(植村の日本列島縦断歩行の記録はないものか。これこそ冒険と思うが)。
(2015.7.20)
明石寺(めいせきじ)から宿まで
このお寺の最寄駅はJR予讃線うのまち。そしてこの周辺に宿が多い。ここに泊まるのが一般なのかもしれない。
が、少しでも先に進んで貯金しておきたいと思って1駅先のかみうわ方面まで足を延ばすことにした。
ここで失策。うのまちへ向かう道と次の札所へ向かう道があったのだ。地図を見ずに道しるべに頼りすぎ逆方向ともいえるうのまちへ向かう道に進んでしまった。
ロスにはなってしまったが、地元の名所的風景・街並みを目にすることができその点は収穫となったが。
・愛媛県歴史文化博物館 遍路に関するものもあるようで時間があれば見たいものだ。
・卯之町の情緒ある街並み
・シーボルトの娘女医イネが勉強したところ
・西予市役所庁舎
・うのまち駅前
・有名な松屋旅館 点線高くて貧乏旅の者には敷居が高い。
16番休憩所の前を通り、宇和パークホテル前までやってきた。食事つきだとかなり高くなるので近所のお店で食事をしてから6時過ぎにチェックインした。
これで4寺を回った本日の行程も無事終了だ。
明石寺から次の44番大寶寺(だいほうじ)までは85キロあるので途中で一泊することになる。いつの間にか全88ケ寺の半分を踏破している。
26日目 2,013年4月5日
宇和パークホテル→鳥坂トンネル→大洲市→番外8番十夜ケ橋→内子町・旅館新町荘本店
結界の外と内
結界という言葉に惹かれる。
ただ「結界」という言葉の意味が人によっていろいろではっきりしない。
「聖」「清浄」と「俗」「普通」の二つに分け、その領域の境に意味を置くものが多いようであるが。
茶道の留め石はその一例だろう。
30年くらい前、ビオトープなど世の中に認知されていなかった時代であるが、東京都練馬区光が丘の一角にバードサンクチュアリなるものが設けられフェンスで囲われた。野鳥保護のための立ち入り禁止区域であるが、これなど案外結界の定義に近いのかもしれない。
私は「通常でない特殊な世界」と「通常・一般の世界」を対比し、その境について考えている。
私たち凡人は、もちろん其の他大勢の一員で、普通の世界に住んでいる。ただ、何らかの理由で通常でない日々を連続・集中して行っていると別な世界に入りかけていることが実感されてくる。あちらの世界に足入れしている気がしてくる。
今日まで休養日なしで連続26日歩き続けているが、もちろんこれは人生初めての異様な体験。話す相手も遍路の人、寺・宿の人、お接待してくれる人と何らかの利害的関係のある人だけ。一般の人と口をきくことはない。
段々通常でない世界に来ている気がしてきた。
この日の朝、歩いていて無邪気に遊んでいる子供たちの姿が見えてきた。
「あ、通常の世界が見える。なんてまともで、いきいきしている光景なんだろう。うらやましい。」
と、思えてならなかった。
遍路は一人ひとりが結界を引きずるように歩いている。
(2015.7.28記)
鳥坂トンネルに近づく。
長身の外国人男女グループに会う。
少しお話し。やたらに早口で聞き取れない。カリフォルニアから来た、トレイルが何とかと言っていた。トンネルでない方の遍路道を通るというのは立派だ。私はなぜかトンネルの方へ。
峠を下り、 道端にある札掛ポケットパークで絵地図を見る。大洲の全貌がわかる。
何と「おはなはん通り」があるではないか。
ライン川の流域にあるようなお城が見えてくる。何だありゃ。結婚式場か特殊ホテルか。
おはなはん
市の中心部に入る。街並みの保存に努力しているのがわかる。
それにしてもNHKの「おはなはん」の舞台がここだったとは全く知らなかった。
私が10代。母が見ていたのを脇でたまに目にする程度。昭和41年の話だったのだ。
当時の視聴率は40数パーセント。社会現象ともいえる驚異的なものだったらしい。
主演の樫山文枝、その父親の大学教授、原作の随筆を書いたおはなはんの息子である林謙一の名前がよく話題になっていたことは私も覚えている。
しかし、今後20年もするとそのTVを見たことのある人は極めて少数となる。その時になお町おこし的に使えるのか少し疑問に思う。
今年2015年6月だったか、たまたま民放ラジオを聴いていたら樫山文枝のご主人が出ていて彼女の夫であることの辛い?立場を正直に話していた。
文枝の父も夫も、今度芸能人の父で総務省事務次官になった人も有名人の親族ということで複雑な思いをした、あるいはするようだ。
(2015.7.30記)
肱川橋あたり。大洲城が見える。
ダイハツミュゼットとは懐かしい。
大村崑氏まだご存命ですよね。あの番組考えてみれば関西系だったが全国展開だった。
ここら辺は1日費やしておかしくないところだ。せっかく来たのにもったいないという気持ちと単なる物見遊山かと戒める気持ちが。
十夜ケ橋 永徳寺
遍路道にもろに沿って有名な番外霊場がある。もちろん参詣。
弘法大師ともなると「御野宿所」となるのだ。
台車活用遍路さんがいた。
市街地を離れてのどかな花遍路となる。
レンゲもふだん見ることはあまりないだけに新鮮だ。
至福の心地。
十夜ケ橋の後、内子までスキップする遍路日記が多いようだ。
が、花風景のほかにも味のある地理・風景が続く。
歩き遍路の良さはその過程を100%味わいながら進むことなので、できるだけ紹介したい。
JR予讃線に沿うような56号線を歩くが、にいや、きたやま駅の先、大洲市から、内子町に
入って、五十崎(いかざき)駅の手前あたりで56号を離れ,左折する。
黒内坊という地名が印象的だ。今でこそ赤い遍路矢印が多いが、ガードレールも電柱もなかった昔はどこで曲がったらいいかわかりにくかっただろうと思う。
56号を左折し下り坂となった。
道に面するところでおじいさんと孫らしき子供が遊んでいた。
少し進むと自転車に乗った少年が追いかけて来、「おじいさんに渡すように言われた」と飲み物のお接待を届けてくれた。
ありがとうございます。感謝。
少し峠道らしいところを通ることになる。
都市計画でできたと思われる山の中にある内子運動公園・駄場池を見ながら歩き、内子の街に着いた。
内子といえば内子座の舞台で有名。ここを見る観光客も多く、全国区だ。行った写真を載せた年賀状をもらったこともある。
入場料を取られるので入り口だけパチリ。
古い街並みも魅力。鍛冶金物店の店構えは文化財のように思われる。2階はアルミサッシュなので意図的に木製ガラス戸にしているのだろう。
今日の宿は内子。有名人が泊まっていることで有名な松の屋旅館は高いので避け、少し先の新町壮本店にした。
電話予約後、市街地ゆえの少しだけ迷い道。女将が途中まで迎えに来た。
ここも料亭の雰囲気を持つところで遍路宿という感じではない。料金は1泊夕食のみで7500円と安くはなかった。お客は私ひとり。
夕食の量は二人前はあろう。で、写真。