結願の章
① 四国歩き遍路41日目 2013年4月20日(土曜日)の記録
足回りのこと
昨日、この宿に泊まった人は全員歩き遍路で翌日に結願を迎える模様。
さすがに皆さん練れていらっしゃる。
参考にはいている靴を見たがなるほどと思われる。不要な重厚長大はない。
毎日行っていたテーピングはこう。
ミイラの足みたい。
両足で30分かかるがおかげで1200キロ歩けた。
これも間もなく終わるかと思うと感無量。
宿は女将さんと働き盛りの息子さん二人でてきぱきやっている様子。
女将さんから一言あった。
ここまで来ている皆さんはもう完遂する体、顔つき、雰囲気になっている。成就は目前、最後の健闘をと。
お世辞かもしれないが嬉しい。
朝食をとりながら独特の少し晴れやかな気持ち。
それにしても皆年齢は高い。
足元以外でも、顔はどすぐろくなっている。
手を見ると甲は黒く、掌は白く、まるでサルのようで自分ながら気持ちよくない。
今日の行動予定・範囲はこの地図に入っている。
(この地図自体は先にある香川大学施設付近そばのもの)
まずは前山ダム方面へ。
途中あった簡素な一心庵も歴史あるもののようだ。
お遍路交流サロン
歩く人はまず顔を出す。
説明をいただけ、記念品ももらえ、ありがたや。
係りの男性、女体山越えは勧めず、伝統ルートを行くよう話す。
大窪寺へのルート選択
87番から88番へのルートについては選択肢があり、少し意見の対立要素もあるから興味深い。
ある人は女体山を系由するコースを採るべきでないとする。意味のない難渋主義だ、歴史に乏しく丁石もない、山門から入らないことになっておかしいなど。
地元の人(立て看板)も女体山を系由しないコースを推薦する傾向にあるようだ。これは危険、事故防止の狙いもあるようだ。
では、歩く人はどういう選択をしているかというとネットで記録を読む限り女体山を系由するコースが多い。如何に大変だったかを述べるブログ記事も少なくなく、これらを読み、自分も険しい山を越えて結願するというストーリーを味わいたいとする向きもないとは言えないだろう。
自分の場合は?
かなりの高齢で足腰が弱っている、登山の経験がないに等しいというなら別だが、そこまで足腰、運動神経が鈍くなっているわけではないし、一応の登山歴もあり技術的に困難とは思えない。それに回避したら後で登って置けばよかったと後悔するに決まっている。
で、女体山コースを選択することにした。他の人はどうだったかというと、交流サロンの男性説明者の説得が功を奏したのか額峠、細川家住宅,多和小学校前を歩く伝統コースを選んだ人が多かった。
私は3コース中、真中の多和神社前を通って太郎兵衛館に至る道にしたが一番少なかったようですぐに人の姿は見えなくなり単独の歩行となった。
いよいよ登りへ
ところで太郎兵衛館から女体山経由で大窪寺まで遍路道を歩くとしても途中舗装された車道に何度かぶつかりビックリする。
あとから日光いろは坂のようにくにゃくにゃ曲がる車道ができ遍路道(ほぼ直登)と交錯する箇所が生じているからだ。
話題になる岩場の難易度であるが、鎖や手すりもあるし一定の注意さえ払えばさほどむづかしいとは言えない。左手に長い杖を持ち、右手で岩などにつかまりながら登れている。
ひと汗かいて頂上となった。到着は午前10時17分。まだ早く余裕の時間だ。
雑誌にも載っていた見晴らしの良い地点で遠くを見る。
と、台形の地形。もしや。
やはり屋島だった。
頂上付近は色々な石碑や表示があってどこがピークかわからない。
平地部分が多いということだろう。
ピークを少し降りると車道。何だ車で頂上直下まで車で来れるわけだ。
又少し登ってから山道らしい下りとなる。
天国ルートと言えるような整備された美しい路が続く。
ただ後で少し悔やまれたのが大窪寺に向かう尾根道右方向の胎蔵峰(たいぞうみね)に奥の院があり寄ろうと思えば寄れたことだ。
もっとも片道200mでも往復と奥の院で費やす時間を考えるとその日の行動に一定の影響を与えるので行かなかったのがどうだったかは何とも言えない。
きれいすぎるような道。そのわけは人の手による。
ありがとう。
麓も近い。北アルプス登山を終えて上高地に降りるような心地。
11:13大窪寺到着。
恐ろしく早いスピードになっている般若心経読経を終えて41日間の歩き遍路も終了
ドラマ的な感動、嗚咽などなく淡々とした気持ちだった。
そのあっけない自分の心情が意外でもあった。
(歩き通しの遍路と、駅伝や4泊五日の縦走登山とは違う。ドラマチックに着いたとたんばったり倒れるようでは1200キロ連続歩行は無理だと思う。さらにここから30キロ歩こうと思えば歩ける、そういう状態でないと。ほかの多くの人が私と同じ心境だった。)
② さてこの先どうしたものか
納経を済ませたがまだ午前11時半。この先どうするか。
当初は遍路の輪を結ぶため、1番あるいは10番へ戻ろうと考え10番へのお礼参りを前提にする宿も予約していた。
昼から歩いてもピッチをあげればぎりぎり夕方にはそこに着くだろう。
だが、終盤にきていつまでも遍路へこだわることへの違和感も芽生えていた。
昔のことだが、有名大学に在籍する女子大生が、大学はたとえ居心地が悪くないとしてもいつまでもいるところではないと卒業してすぐ別の道に進むといっていたのを聞き、ある意味感動したのを想い出す。
知人に両親と30歳を過ぎた3人の子供がともに住む家庭があった。皆きちんとした仕事についているのだが、ある正月5人そろって、顔を見合わせ、このままでいいのだろうかと気まずく思ったそうだ。
こういった感情に近いものを感じた。
昨日同じ宿に泊まり伝統コースを歩いた埼玉の男性に大窪寺で再会したが、〇番の寺を儲けさせる必要はない、遍路は88番で結願!ときっぱり言い、ここで終わりにすると明言した。
私も急速に遍路結界から脱却したくなった。そしてこの日のうちに四国を離れ奈良へ行くことにした。
2017.5.31記
③結願寺納経所への疑問
泣いて感激、ということはないとしても長かった歩きを振り返って独特の感慨がないはずはない。
雨と強風の中の歩き、見ず知らずの人から受けた心温まるお接待、番外札所納経所で費用はいらないと言われたことなど色々なシーンがよみがえる。
最後のこのお寺はどうだったか。
真逆なものでとても淋しいものであった。 その時の私の気持ちをそっくり代弁してくれている本があった。長くなるが引用させてもらおう。
生きることは歩くこと 歩くことが生きること!(2011年12月20日幻冬舎ルネッサンス)
注) 著者藤江彰彦さんは1934年北海道生まれ。
平成22年9月に76歳。仕事も終え二年半。喜寿を節目にひとり歩き遍路の実現を新春の朝日に誓ったそうだ。
遍路日数75日間、高野山詣で二日間の記録だ。
現役を退いた高齢者の思い出記録と思われがちだがそうでもない。
60歳ころから始まった血圧の不安定や近年になって目立つようになった不整脈などを抱え、薬を手放せない日々。家を出るとき「これが我が家の見納めとなるのではないか」との心境にあった。昔は多くても今の時代にはないと思われていた死をも覚悟してのものであったのだ。
(以下引用)
決して過大な期待や特別のことを望むところではないが、納経所の執事からは「お疲れ様でした。ご苦労様でした。結願成就、おめでとうございます」のいずれかの一言があると思っていたところ、一言の愛想もなかったこともさることながら、「ハイ、300円」と手を出されたのには開いた口がふさがらなかった。
言葉が過ぎるかもしれないが、今の四国遍路の札所寺の姿勢の一端を象徴しているように思われ、、寺の関係者に猛省を促したいところである。
ましてや様々な悩みや願い事を抱きながら長い道程を歩き続け、険しく厳しい坂道や峠越えなどを幾重にも重ね、1200キロを超えて歩き続けることが巡礼の基本となっていることを知るお寺の方々は、心からの癒しと労いの言葉でもてなしをすることが仏道につながる道であろうと思われた。
ようやくにして「四国ひとり歩き遍路」の結願成就を果たし得たところで、このような批判めいた思いを抱くことは極めて不本意であり、全くふさわしくないことは承知しているが、結願所の大窪寺の納経所で最悪とも思える振る舞いを受け、現実の世界へと引き戻されてしまったのである。
この方、真言宗と関係のないスタンプラリー的にわか信者ではない。
祖父は北海道に真言宗東寺派のお寺を開設し、兄は現在住職という。
いわば身内の人だ。
その人にかくまで厳しく言われることの重さを感じてほしい。
88番だけではない、すべての札所に。
2017.6.2記
88番へのもう一方の発言
批判というわけではないがこちらの記述も考えて見れば反省を迫ることになるのではないか。
最近準基本書になりつつある辰濃和男氏の本だ(2001年岩波新書)。
(氏は1998年から2000年にかけ6回に分け71日で歩いている 。)
納経をすませて、ふと思い出したことがあって納経所で働く寺の人に聞いた。「あの、昔この寺をお参りしたとき、本堂前に箱車があったのを記憶していたんですが」。
足の不自由な人が乗った木製の車である。立って歩けるようになったので、この寺に奉納したのだとお坊さんに聞いたことがある。
「さあ」。寺の人はたくさんの数の納経帳に筆を走らせながらいった。「たぶん、もう片づけちゃったんでしょう」。忙しいんだ、あまり余計なことをきいてくれるなという感じが声の調子にあった。
境内で休んだ後、もう一度、最後の般若心経を唱えようと思い、本堂の前に立った。天井を見上げた。何だ、箱車はちゃんと天井に吊るされてあった。気がゆるんだのだろう。見えるものが見えなくなっていた。
2017.6.5記
④ 88番大窪寺からバスに乗って大阪へ
注)結願の章はまだ終わっていないが筆が止まったまま1年近くたっている。
2018年3月11日が近づくにつれ、東日本大震災から7年目になるという報道が多くな
った。そして3月11日に出発した私も「もう5年目か。4年位したらもう一度出かけたい
と思っていたが行けていないし、この先も無理かもしれない」と感慨にふけることに。
残る記録もわずか、続けよう。
さいたまの男性と食事をし、あたりを少し歩くなどして時間をつぶす。
地域コミュニティーバスの時間が近づいたのでバス発着所に向かう。
同じような人が段々集まってきた。
みな,達成感に裏打ちされ、つきものが落ちたかのようにさっぱりした雰囲気を醸し出している。
遍路の服を平服に替えた。といっても白い上着と袈裟を外すくらいだが。
とりとめのない雑談。
千葉から来た男性は既に100名山登山も踏破しているらしいが、女体山が厳しかったといっていて?に思った。
長らく米国に住んでいて日本に帰国した人もいた。交通機関も利用した部分的なものらしかったが嬉しそうだった。
やがて女性運転手のマイクロバスが到着。
今日は土曜日なので平日より割高らしいがタクシーに比べたらエコノミーそのもの。
毎日歩いていた人間が急に乗り物に乗るなんて。
違和感を感じてしまう。
何と早いのだろう。まるで異星に来たかのような感じ。
あ、今朝歩いたダム前ではないか。思わずガラス越しに写真。
そして、またアッと声を出しそうになった。
何度か一緒になった大阪のブラック企業を辞めた野宿遍路の青年がコンビニの前で茫然と立っている。
窓を開け、声をかけたい気がしたが。そうもいかず。
卒業写真という歌がある。
女声の歌だが
毎日通学に使っていた道
今は電車からその道を見るだけ
という内容。
それとおんなじだ。
戻るわけにはいかない。どうしようもないさみしさを感じる。
運転手さんは気を利かして高速の志度バス停傍まで運転してくれた。
高速道路でバスに乗るのは初めての体験だ。
色々な便がたくさん出ている。
大阪とか難波とかJRなんばとか土地勘が全くないのでどう違うのかわからない。
神戸を遠くに見ながら大阪に向かうルートだった。
大阪に着いて窓から初めて通天閣を見た。これがそうか。
大阪のどこかに着いて何処かの駅から鉄道で奈良に向かった。
足を引きづるようにして宿に着いた。
長い旅が終わった。
2018.4.1記