30日目 2013年4月9日火曜日

 

松山市ユースホステル―道後温泉本館ー正岡子規記念館→山頭火一草庵→52番太山寺→53番円明寺

→伊予北条の宿

 

 

 前日夕方、この宿に着いた。道後温泉は目と鼻の先にあるので温泉につかりに行き、あたりにたくさんあるお店で夜食をとるのが普通だろう。

が、あまりにつかれ、また靴を履いて外に出る気力はなかった。

1階にあるリビングのようなところでくつろいだり、パソコンをのぞいたりして過ごした。

夕食の内容はイマ2。大体ここで夕食を食べる人は少ない模様で食べるのは私を含めて二人しかいなかった。

 ただ、初めてのユースホステル。英語表記の多い案内、外国の学生、リビングの開放的な雰囲気などは新鮮でいい思い出となった。

 

 ここらへんで初めての休養日を取ろうか、そうも考えたが、そんな暇があるなら正岡子規記念館や山頭火の終の棲家を見に行くべきだと、貧乏性の私は結局取らなかった。

下り坂を歩くとほどなくあの有名な道後温泉本館。

 せっかくここまで来て入らないと後で後悔すると思い、杖をつきザックを背負ったままで道後温泉本館玄関に(早朝6時から開業している。400円)。

杖、菅笠、ザックを預かってもらって記念入湯となった。

 入れてよかった。

 

 

 

 

 

 

 正岡子規記念博物館

 

温泉を出て、まずは公園のベンチでゆっくり今日の歩行に備えてテーピング。

目の前にある記念館は大きくて立派すぎるほど。

入ると子規の等身大写真がある。

子規が帝大生の時、房総旅行に出かけた際の貴重な写真。
子規が帝大生の時、房総旅行に出かけた際の貴重な写真。

漱石の房総旅行に触発されて2年後の明治24年子規が房総に出かけた際のこの写真は重要だ。

 ・たかが学生が旅行の途中千葉村(現在の千葉県庁付近らしい)の写真館で記念撮影と

  は。今の感覚では信じらない。

  漱石にも撮っておいてもらいたかった。

 ・頭髪は今と変わらない。が、着物に袴、脚絆にわらじだぜ。!

  子規子供の頃のちょんまげ写真が残っているが頭をそうしたなら東海道53次と変わらな

  いではないか。江戸時代は近いんだね。 

 ・菅笠はかろうじて四国遍路姿として残存している。

 

 

この項を書いた本日2016.1.27偶然にも読売新聞地方版に同じ写真を使った記事が出ていた。

 

 

 

 また3年前に戻るが子規博物館が持っているという写真が載っている本を見せてもらおうと思い、申し込んだ。何やら貴重書扱いで申込書を書かせられ別室で監視付きで見せてもらった。

 遍路の途中に文献調査とは変な話だ。

 係りの女の子に玄関ホールに立てかけてある写真と同じところを歩いたんですよ、と話しかけたが全く関心なしという雰囲気だった。

 (コピー2枚で160円)

子規は芭蕉の神格化に批判的であったというが松山市の子規に対する扱いも神格化ではなかろうか。

 2016.1.27 記

 

  追記1.31

 2016.1.30(土)NHKTVブラタモリで松山の街歩きをやっていた。TVだと街の様子がわかる。あのアーケード歩いた気がする。

 次週は道後温泉とのこと。拝見しよう。

 

 

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山頭火終の棲家へ向かう 

 

記念博物館を出て次へ向かう。

繁華街のまっただ中を歩く。

遍路マークも段々目に入るようになってくる。

ゲストハウスの表示もある。当時どういうものかは知らなかったが。

やがて落ち着いた街並みへと変わる。

進行右側に川がありその奥は緑に囲まれた丘となる。

 

文京区目白台辺りの下を流れる神田川沿いに近い感じとなっている。

学校、お寺、神社などが多い、落ち着いた雰囲気だ。

御幸寺と一草庵を示す碑がある。

川にかかる橋を右に曲がる。

 

曲がると風情のある小路。

細川さんの永青文庫がある胸突き坂(文京区目白台1-1-1)にとても似ている雰囲気だ。

 

時間をかけてゆっくり歩きたい所だ。

奥に山頭火が何かと世話になった御幸寺山門が見えている。小路を少し登って左折したところに終の棲家一草庵がある。元は御幸寺の納屋だったところ。

整備され、きれいすぎる気もするが。

 

昭和14年山頭火はここに住めることになってことのほか嬉しかったようだ。

60手前だが、初めてマイホームを手にした若夫婦のよう。あるいは手作りの小屋ができて喜ぶあんちゃんのよう。

昭和15年亡くなるまでの1年足らずの期間であった。

 

 

一草庵の手前に立派な休憩所があり、資料も展示されている。

かねてからできた人だと思っていた一人息子の写真があった。

父親似だ。

左隣の女性は誰だろう。健氏の奥さんかな?

山頭火の奥さんは若いころは結構可愛い。

 

 

道後温泉、子規記念館、一草庵の3カ所に立ち寄り半日を費やした。

後二箇所はぜひとも行ってみたいと思っていた場所であり、立ち寄れてよかった。充実を感じる。

(山頭火については思うところもたくさんあるので別に書きたい。)

 (胸突き坂については「そうだ東京へ行こう⑫」)

2016.2.21記

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52番太山寺(タイサンジ)へ向かう。

 

一草庵を出たのはお昼ちょっと前11:45頃。

太山寺(タイサンジ)まで9キロ位、2時間の行程だ。

いつの間にか川の右側の歩行となる。

風情のある安城寺町の板塀の家などを見ながら、JR予讃線の踏切を渡る。

池を見ながら、大将軍神社といういかめしい名前の神社の前を通る。

特徴ある一の門(いちのもん)を経て山門へ。

開基者真野長者を敬う文字が目に入る。

しかし本堂へはまだ坂を上らないといけない。標高75mと、ちょっとした山なのだ。

 

ここで参考までに読経する二人の女性の姿を。

ザックと靴を見ればバス・車ではなく歩いているなとすぐわかる。

盗難が怖いのでザックは身から離さない。歩きならこのくらいのかさが必要になってしまう。

左の方、服装が特別の仕立。区切りでしょっちゅう回っている有名な僧籍のある女性かな?

 

このお寺、スペースの関係からか納経所は少し離れた下ったところにあるので面食らう。

 

 53番円明寺(エンミョウジ)へ

2.5キロ、35分の行程だ。

途中まで来た道を戻り、片廻バス停の先で分かれる。和気小学校の前を通り、開けた平地を歩く。

いつの間にか食料を買うところがなくなり円明寺前で4個100円の柑橘類を買って食事替わりとした。

間もなく到着。街のお寺によくあるこじんまりとした印象のお寺だ。

 ここで有名なのが銅板製の納札と隠れキリシタンのマリア観音。石を見てもはっきりしないが。

ちなみに52番、53番とも真言宗智山派。51番石手寺は豊山派だった。高野山以外のお寺ががかなりの数となる。

53番円明寺を出て宿に向かって歩き始める。

 

 54番延命寺までは35キロ9時間弱の距離で当然今からは無理。手前伊予北条駅近辺に宿の予約を取ってある。それでも11キロ3時間程度。間に合うか気になる。

 

懐かしくも河口、海の風景が見えてくる。

瀬戸内海を左手に黙々と歩く。

海鮮北斗という大きなレストランがあった。

日没に向かう時間の歩きには寂しさと疲労感がつきまとう。

 そんなおり、市街地の道を歩いていると小学校低学年らしい女の子の姉妹に頑張ってと声をかけられた。

嬉しいなー。

同じ方向に歩きながら少しおしゃべり。

「あたしたち埼玉から来たの」

「へー。おじさんも大宮(当時は大宮市,現在はさいたま市の一部。)というところに住んでいたことがあるんだよ」

大宮といってもピンと来ないようだった。

しばらくして家が近いのだろう、さよならと横丁に消えた。 

写真を撮らず顔は全く記憶にない。二言三言の会話が残るのみ。

 

 JR粟井駅先にあった大きなホームセンターコーナン北条店(松山市河野中須賀312-2)

に入る。

擦り切れている杖の先にかぶせるチェアキャップがやっと見つかる。これと5本指のソックスを購入できてよかった。

四国にはコンビニではローソンが、ホームセンターではコーナンが多いようだ。

時間は既に17:40を過ぎている。急がないと。

 北条という町、今は松山市に編入されているがかっては北条市だったのだ(埼玉県大宮市と同じ運命)。歴史あるたたずまいを見せている。

(宿の項目消失)

31日目 2013年4月10日水曜日

北条の宿→鎌大師・一茶の道

 

 6時台に宿を出る。朝、荷物を自宅へ郵送。といっても紙資料中心で500g程度かもしれない。それでも軽くなり楽になった気がする。

遍路矢印に沿って鎌大師に7:25到着。

ここら辺は歴史豊かなところでいろいろありそう。

あやめと「一茶道」とは何だろう?

 

 

一茶の道の説明を読む。

住職をしている師のところへはるばる出かけたが、その人は15年前に死去。

後任の住職に宿を願ったが断わられたとある。

昔の旅の厳しさ、師、門弟、ファンとの間の交流、便宜取り計らいの様子が垣間見える。

 現在はその当時の一茶の歩行ルートを町おこしにも使っているようだ。

宿泊を断った西明寺(現 最明寺)には一茶のことを説明している碑が立っているとのこと。

これって鴨長明につらく当たり、彼の鬱屈さに拍車をかけた下鴨神社摂社河合神社が拝観料をとって長明について展示・喧伝していることに通じていていい感じはしない。いくら昔のこととは言っても。

 作家家田荘子さんはその著(四国八十八か所つなぎ遍路)で鎌大師を経る遍路道ではなく「道の駅風早の郷・風早里(フワリ)」に寄りたいと少し遠回りをして海沿いに歩いたことを書いている。

 そういえば私も2012年車中泊で回ったとき泊まったのがその道の駅であった。かろうじて写真を1枚だけ撮っていた。

今回鎌大師遍路道を歩いていなかったら、「一茶の道」も「風早」という地名も印象に残ることはなかっただろう。

家田さんは極道の妻を書いた作家。

二泊三日の歩き遍路を続けて書いた本。

初版は2014年1月というから私が行ったあと1年足らずの期間ででた新しい本といえる。

内容であるが、実際歩かなければわからないところを丁寧に自分の思いに沿って率直に書いている。

全寺に関わる歩きについてきちんと書いてある本はあるようで少ない。悪くない本と思う。

 

 ところで歩き遍路について記録的に書いてある本、ブログは結構あるが、これについて思うのは次のこと。

 それは通しで歩いた人の記録より区分打ちで歩いた人のほうが内容、深さも勝ることだ。

記憶が鮮明なうちに書き記すことが可能であること、通しだと疲労が蓄積し感覚が鈍化するのは防ぎようがないが、区切ㇼならその都度リフレッシュが可能なことによる(途中で休養を入れれば別)。

 ただ、逆に通しゆえに感じること、募ってくる思いは体験できない。1キロを41回走ってもフルマラソンを1回走ることとはイコールとならない。

 

 

浅海(あさなみ)へ向かう

 腰折山(214m)を右手にして進む。遍路道ピークは85mだ。

奈良を思わせるような低い山

風情に富む旧家の御屋敷

春の植物などいろいろ

海べりに降り、駅前通過

 

間もなく今治市(旧菊間町)に入る(8:38)。

なぜか今治って全国区の知名度だ。高校野球とタオルのせいか?

 

 

菊間町であるが、瓦の生産地とは知らなかった。

関連の事業所が並ぶ(9:21頃)。

無人お接待所では、地元らしい焼き物が提供されてて感激(9:26)。

もらった地蔵さんは家の玄関に飾ってあります。

ありがとう。

遍照院

風の吹く海岸の道はかなり続き、遍照院についてホッとする。

遍路はほとんどここで休憩をとる模様。

WCがあるので助かる。

この後も海岸が続くが、海のきれいなことに驚く。内海でもこれほどとは。

星浦海浜公園で昼食とする。

今日は人と話をすることが無い。

54番延命寺へ

この後段々内陸方面への歩きとなる。

よくも残っていると言いたくなるような細い遍路道もある。

到着14:03

延命寺の旧名は円明寺。35キロ離れるも53番と同名なので明治初期に改名とか。

本尊は不動明王。

真稔が建てた標石がある。

 

 

55番 南光坊へ

 54番延命寺を14:20頃出る。

 このあたりから59番まで寺院間の距離が短くなる。昔から開けている所なんだろう。

 55番までは4キロ約1時間だ。

 お墓(大谷霊園)のなかを通り、忠霊塔、今治北高校の前を通る。

 15:48到着。

 立派な山門だ。多くは戦後の再建らしくしっかりした作りだ。

 南光坊はもともとは隣の大山祇神社と一体であったのであり、それを思うとそこにも立ち寄ればよかったと今にして思う。

 おや、福山グループが参拝していた。

 都会のお寺らしく?境内内が駐車場になっていて、そのアウラのなさがかえって印象に残る。

今日の宿は今治駅前のビジネスホテルだ(今治ステーションホテル)。16:25着。

 2016.3.14記

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32日目 2013年4月11日木曜日

 

今治駅前から56番泰山寺(タイサンジ)へ向かう。2.5キロの距離だ。

 

今治駅前の今治ステーションホテルを出る。

じき、普通のまっすぐな道になる。朝の通勤時間帯でもあり、風景に合わず、浮き上がっているであろう異形の自分を意識してしまう。

今治西高校。聞いたことのある名の高校だ。甲子園に出たのか出るのか校舎に垂れ幕がかかっている。活発な校風がうかがえる。

面白いワイヤー製の植木カバーを見る。

 泰山寺(タイサンジ)

 

手前の駐車場に着く。何やら立派な門が。なんでと思ったがこのお寺、山門がないことで有名。丁度入口手前にあたるので駐車場にそれらしい役割として門を付けたのかな?

お城の雰囲気の石垣の前を通って入る。

真言宗醍醐派

大師堂?両脇の柱にかかっている標語が斬新。

立派な宿坊がある。歩くスケジュールが合えば泊まるといいと思う。宿坊には他の一般的な宿にはない良さが必ずある。

泰山寺を出て57番栄永福寺へ向かう。

 

四つ角の家に組み込まれた石仏

社会福祉施設の角にある無縁仏

休憩所などを見ながら歩く。

蒼社川(そうじゃ川)土手に出た。

かっては川の中を歩いて渡ったらしい。

今でも水量が少なければできそうだ。

 

右に折れ、土手を橋まで歩く。とてもきれいで風情のある道だ。舗装も途中から土に代わって完璧となる。

永福寺に近づき、ちょっとルートがはっきりしなくなった。二つあるようだ。

小川に沿った裏道の様なところを歩き、お寺に出た。

 栄福寺は地味なお寺の印象で、紹介する図書の文字数も多くないようだ。

 ところがたまたま栄福寺ウエブサイト〈山歌う〉を見て24歳で若き住職となった白川密生(みっせい)氏を知るところとなった。

 氏は相当に発信力のある方で、学術的な論文もイラストも一般的な文章もものにしている。「僕は坊さん」という本の著者でもある。人柄も取り巻く家族も暖かそうで、このままおごることなくまっすぐ成長していけば70歳のころには高野山で相当な役職についていることと思う。

 結局、宗教は建物ではなく人です。多いに期待します。

 

(追記)人の感じるところは同じ。家田さんの著書にも書かれていた(262ページ)。

 (納経の時間を過ぎていたにもかかわらずに)「祖父の跡を継いだという若いご住職が、直々に納経をしてくださった。さらに閉めてしまっていた本堂と大師堂の戸まで開けてくださった。

 思いもよらない心づくしに感激と(ここまでしていただいて、いいのかしら)という嬉しい戸惑いさえ感じていた。」

 

2016.3.23記

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57番栄福寺を出て58番仙遊寺へ向かう。

 

4キロ1時間の山登りとなる。

すぐ、犬塚池という何やらありそうなため池に着く。堰堤に登り池を見ながら寂しげな道を進む。

立派な仁王門の前に出る。ここはまだ途中であり、仙遊寺の標高255m まで、登りが続く。

シャクナゲであろうか花が美しい。

 

奈良興福寺の夏目雅子似の阿修羅像は日本で最も人気のある像であろう。

このお寺のこの像も美しく惹かれるが口にする人は知らない。

 

59番伊予国分寺へ向かう

 

国分寺は国ごとにあるわけで混同を避けるためにも国の名をつけて言うのがいいと思った。

約6.5キロ2時間の行程である。

まずは下りの登山道という感じになる。

ハイキングコースにもなっている整備されたきれいな道だ。上の仏像とともにこの道も遍路コースの中でお気に入りとなった。

国分寺1キロ手前。

なぜか印象に残るお店だ。

伊予国分寺入口?

山門がないせいかピンと来なかった。

上から見るとわかる。

この日前を歩く人はポンチョをつけている。そうだ、小雨が降ったりやんだりの日だったのだ。

伊予国分寺から今日泊まる宿へ向かう。

 

 国分寺を出たのは昼12時を少し過ぎたころ。

横峰寺まで28キロ8時間の行程で今からは当然無理。

また、横峰寺は88か所三番目の高さ(745m)で楽ではなく、宿坊もないので、翌日一気に登山・下山とする必要がある。したがってなるべく近くまで行って泊まりたい。

 

(前日の宿探し)

そう思って前日ふさわしい一軒の遍路宿(栄家旅館)に申し込んだ。ところが誰もがそう思うらしく、満員なのでと断られてしまった。

茫然自失とはこのことだろう。そばに他の宿はない。初めての歩き遍路、土地感もなくどうしたらよいのだろうと泣きつくように相談した。

 電話のおばあさんは「にゅうがわ」の方へ行けばあるでしょうとの返事。

にゅうがわという変な音に?

あわてて地図を見る。遍路コースを相当離れたJRにゅうがわ駅のことだった。確かにそこには宿が散在する。あさっての方角という感じであるがやむを得ない。その一つに電話して確保できた。

 

(話は戻る)

 国分寺を出て歩くのは、JR予讃線に沿うように走るまっすぐの156号・196号。

単調な車道歩きで長く感じる。ときおり小雨も降るし疲れも出てきてへきえき。

 

歩き遍路も少し目にするようになった。

どこの納経所からか覚えていないが時折目にするようになった若い男性がいた。

シュラフやマットを含む荷物の大きさ、薄汚れた 感じから一目で野宿遍路とわかる人だ。

門前で記念証拠写真をお願いされることも何度か。

 長身の俳優になれるような格好の良い好青年がなんで、と思ってしまう。

若い遍路というと女性のほうが目立つ気もする。元々退職・転職等が多いからだ。

ドロップアウト、就労放棄でない堅気の男性というとめったなことでは退職はしないし、退職してもすぐに求職活動に入るので日程的に歩き遍路は難しい。

 

その男性に道の駅「今治湯浦温泉」当たりであったか、大卒後就職1年で退職したと聞いた。睡眠時間もろくに取れず、このままでは殺されると思われるようなブラック企業だったとのこと。

そういうこともあり熟年遍路、定年遍路が醸し出すさっぱりしたところはなかった。ただ、悩み、不安にさいなまれながら歩くのはむしろ遍路にとって正道では、とも思われた。

 

 帰ったら就活に頑張るよう励ました。

 きっといいところに就職できているだろう。そして遍路を懐かしむように思い出しているだろう。

 

 

蛇越池から本来は159号に右折するのだが私は壬生川駅に向かうのでそのまま196号を直進する。

今治市から西条市に変わる。カブトガニ繁殖地、越智家住宅を見ながら市街地に入り今日の宿ターミナルホテル東予に到着。

 

2016.4.1記

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当園の概要

 

完全オフグリッドです。

 土地:1千数百㎡、一辺は舗装公道に面する南向き方形平坦地。病院、ホームセンタ、コンビニが其々複数あるもなぜか都市計画区域外。2002年取得

 山小屋:柱を4本建て、それに斜めに屋根をかける竪穴式住居構造。白川郷の合掌造りに似ているところもある。床は土間。 

 

電気:独立型太陽光発電 第1装置 24V1KW発電,

第2装置 12V約200W発電

それぞれ1500Wインバーターを介してサイン波AC100Vで使用。他にバッテリなしのシステムがいくつかあり。

 

水: 雨水利用:3カ所の屋根(PV架台を含む)で集水して1トンくらい貯水:下屋屋根などを活用すれば増量は容易だが使いきれないので計画なし。

飲料水:〇〇の駅で150m深井戸の検査済み水をもらえる。

 

汚水処理:新見式準拠

 

改良及び近い将来の計画

①止水(雨水)対象の簡易緩速濾過装置(今後)

②山小屋の改良

・二重屋根化(終了)

・土間床を防湿コンクリート部分と伝統的三和土部分にすること(終了)

・外壁に沿って犬走敷設(終了)

・ポリカ平板で大型ひさし(終了)

・無線ANT用パイプ設置(終了)

③小屋内土間に蓄熱のための大きなコンクリート桝+FRPバスタブを設置(終了)。これを活用する具体的方策(今後)

④厳冬期無暖房自己体温のみで過ごせること及び建物が崩壊してもその部分は現状維持が可能な小屋内シェルタールームの建設(終了)。ふだんはゼオライト、粒状活性炭の少量備蓄庫として使用。換気はDCファンと塩ビ管によっている。

⑤入口ドアの断熱・防音・採光化(終了)

⑥入口両脇に収納庫設置(終了。片側はバッテリーバンク庫)

太陽熱利用のエアヒーター(装置は数個完成)。その運用等(今後)

 ⑧ 無線通信(モービル)

430・144MHZ FM50W出力(終了)

余剰雨水を活用して平城宮跡東院庭園にある洲浜の池をイメージする小さな浅い水辺を作りたい(規模は畳1~2枚程度)。

 

 

 

 

1kw独立型太陽光発電
1kw独立型太陽光発電
初めての雨水利用
初めての雨水利用
こちらは絶版です。
こちらは絶版です。