27日目 2013年4月6日 土曜日
内子から久万高原へ 宿:ガーデンタイム
天気予報は昨日から今日4月6日の天気は荒れる、不要な外出は避けるべきと繰り返していた。
ニュースを見た友人からも停滞すべきでは、とのアドバイスをもらった。
避けるつもりはなく、かといって危険な目にも遭いたくないので、山の遍路道は避け、すべて車道を行くことにした。
が、大幅な遠回りになり、歩行時間も長くなるので早めに出発にすることにし、朝食は頼まなかった。
いまだ暗いうちに出発の用意をし、カギをテーブルに置き、そっと新町荘本店の玄関を出る。
56号線を歩いてすぐに、24時間営業のコンビニ(サンクス)があったので、ここで食料を買い、ドアの外で立って食べた。コンビニがある限り宿で朝ご飯を食べなくても困ることはない。
少し歩いてすぐ松山へ向かう56号と久万高原に向かう379号に分かれる。車道を進むと道の駅内子フレッシュパーク「からり」が右に見える。
苗木も置いてあるお店だ。
沿道の民家、傾いた廃屋にギョ!
いくつかのトンネルを通り、遍路道の標識に随って新成屋橋のところで左折する。
とても雰囲気の良い街並みだ。
大瀬自治センターではトイレも利用できる。宿にもなる大瀬の館はこの北側になる(地図の写真参照)。
事前の勉強不足で道筋にノーベル賞作家大江さんの生家があったのに気が付かず、残念。
上記地図で自治センター反対側5軒目あたりに表示があるではないか。写真に一部映っているかもしれない。
大江さんの作品、どうも性に合わずまともに読んだものは1冊もないが、これほど遍路道そのものに面しているとなるとエッセイに書かれていることもあるのではなかろうか。
旅は事前の準備で密度は濃くも薄くもなる。
遍路道は先で車道379号に戻る。
河口橋バス停は遍路の休憩所にもなっている。
ほかにもいくつか休めるところがあった。
久万へのルート検討
379号を進むと突合(つきあわせ)の分岐点につく。
ここで久万高原に行くための大きなルート選択が必要となる。
大別して①農祖峠経由と②ひわ田峠経由に分かれる。
北回りのひわ田峠経由は突合でそのまま379号へ進み、南回りの農祖峠経由なら380号に進むことになる。
が、そのほかに①の農祖峠経由ルートに入りながら380号の途中大平地区から北上する畑峠遍路道に入って②のルートに合流してひわ田峠に向かう③のコースもある。
どのルートを選択する人が多いかわからないが、HPを拝見する限り①農祖峠経由が多い印象を受ける。
私はというと、散々天気予報に脅かされたので380号の途中、フジミネから42号線に左折して農祖峠をめざすという通常のコースを止め、直進し33号とぶつかる落合でに左折することにした。
2点間の最長距離2辺を歩くことになり、到着時間が心配になった。
メリットは大元八幡神社を目にすることができることか。
もう一度遍路をするとしてどのコースを選ぶか考えることがある。
前述③のコースについて、辰濃さんが道に迷ったことを書かれていた(岩波新書「四国遍路」2001年)。
「小田町で一泊し、翌朝、大平地区から北へ進み、山に入った。山道に入る前、間違いやすい道だから注意していきなよ」とビニールハウスで花を栽培しているおじさんに注意されたのに、森の中を進むうちにどこでどう間違ったのか、気が付いたときは遍路道を示す標識がなくなっていた。」
「二時間、三時間歩き続けても人家は見えず、車の姿もない。不安が胸をかすめた。愛媛の山の深さを思い知った。日が傾いてくる。」と続く。
地図を見ても相当に曲がりくねったところがあり、また中途半端に林道と接していることもあり、いかにも道に迷いそうだ。
どうも畑峠遍路道の選択に合理性あるようには思えない。
もう一度行くならわかりやすく、見どころも多そうな379号に入り、滝ノ上⇒三嶋神社⇒下坂峠⇒ひわ田峠というコースにするのが賢明かも。
さて、380号に入って沿道の傾斜地に立つ家を見ながら歩く。
急峻な山腹にカラフルな家が建つフィヨルド風景に少し似ている。
間もなく道の駅「せせらぎ」が目に入る。小ぶりな落ち着く道の駅だ。しばし休憩した。
道を歩いていてサワガニに遭遇するとは思わなかった。小さい体で威嚇してくる。
三島神社(こちらの島に山篇はつかない) の少し先に車道をショートカットする遍路道の入り口がある。なぜかここのスポットにはぞっとするような霊気が漂う。
民家の玄関燈、飾り、家につながっている馬小屋?の跡なども興味深い。
最後のコーナー伊予落合だ。380号を左折して33号に入る。
交通量の多い車道。
宿題をこなすような単調な歩き。
雨はしとしと。
いい加減歩き疲れた。
約43キロ歩き、4時過ぎにやっと今日の宿ガーデンタイムに到着。
散々天気予報に脅かされ、大回りの長距離を歩くことになったが1日停滞せずに済んだことを良しとしよう。
明日は好い天気になってほしい。
28日目 2013年4月7日日曜日
ガーデンタイム→44番→45番→遍路宿 桃李庵(久万高原町)
朝、起きると天気がどうか気になる。登山での山小屋の朝と似た心境だ。ザックをを背負っての歩きで同じだからね。
窓の外はと見ると、又雨。がっかり。
泊まったガーデンタイムの印象を述べよう。
ネーミングからして遍路宿ではない。洋風ペンション風だ。釣り客が多いのか魚関係の道具類が見られた。
遍路客はワンノブゼム。夕食は食堂というかレストランで一般客と一緒。なじみのお客が多いらしく初めての遍路はポツンと疎外感を味わうことになる。
ただ、遍路日記にもちらほら出てくる。
辰濃さんも似たような、ただし好意的な印象を述べていた。
宿は44番に近い。割と立て込んだ建物群の中を通ってすぐお寺となる。
階段から見下ろすと雨がきれいだった。
寺の裏から続く遠路道を歩いてトンネルの脇に出た。
春の雪 久万(くま)高原
4月7日になって雪が降るとは。
桜と雪を同時に見るなんて。
四国といってもここ久万高原は冬、零下15度まで下がり、スキー場まである高所なのだ。
クマザサも久々に目にする。
1℃の表示。
明け方は零下何度だったのか。予期しないで軽装備のまま野宿したら危ういだろう。
鉄鉢のなかにもあられ、の山頭火名句が思い浮かぶ。
荷物になるが手袋を一つ残しておいて助かった。たまたま黒い軍手であられがよくわかる。
淡々と次のお寺を目指して歩く。
44番大宝寺から45番岩屋寺のルート
雪、ぬかるみを考慮して車道を歩くことにする。ほぼ、同じ道を往復することになるがやむを得ない。
往復ということになるので荷物をあずける人も多いようだがガーデンタイムは少し戻らねばならないのでそうしなかった。
二順するならこのあたり時間をかけて要検討箇所ということになろう。
国民宿舎古岩屋荘の前に立派な休憩所がある。
うすら寒くて長居はできなかった。
いよいよお寺45番へ近づく。
最後は細い山道のような参道となる。
その入り口手前の駐車場は民家の庇が瀬間ていて大きな車は入れない。車遍路の方は要注意。
45番札所 海岸山岩屋寺(いわやじ)
真言宗豊山派 本尊 不動明王
元は44番大宝寺の奥の院だったのが明治7年45番札所になったとのこと。
そのせいかどこか44番・45番が一体的に見える。
険しい垂直の岸壁は一定の宗教的雰囲気を持ち、効果はあろうが、岩質はもろく震災発生時、お寺の人はむろん、参拝客へ及ぶ危険性を感じてしまう。
そんなこともあるのか、重量鉄骨での工事がなされている。
ナントカと煙は高いところに登りたがるのではしごを登って見学。どうというものはなし。
せり割禅定入り口の写真も撮っておけばよかった。
44番の標高は560m、45番は670mと山寺だ。そのせいか、この二つを巡拝すると一仕事が終わったという感じがする。
同じ車道12号をまた戻るのは単調すぎる気がし、事実当初はそうだったが、そうでない雰囲気を味わうことができ、決して消化試合的なものにはならなかった。
第一は道に沿って見えた原田泰治の素朴画そのものの風景だ。
絵のように美しい。
第二の収穫は住吉神社のあたりから12号の脇を通る遍路道に入り河合の旧遍路宿集落あたりを歩けたことだ。
距離は長くないが古さと歴史が感じられる。
今は一軒も宿がないようで寂しい。
12号と33号線の交錯するあたりの中心街に近づく。
おくま大師を見、大きなドラッグストアに立ち寄って食料も購入。
今日はほとんどまともに食べていなかった。道路沿いのバス停で食事しながら丁度良い場所にある宿、桃李庵に予約できないか電話。
最後の一人でOKとのこと。よかった。
丁度ご主人、こちらに所要で向かっているとのこと、ザックだけ運んでもらえることになりこれまたラッキーだ。
桃李庵のこと
ご主人は元会社員。何度かの遍路の後、この元建設作業宿舎を買い取って純然たる遍路宿経営に至ったったらしい。少々いい意味で偏屈ぽい点もあるが、遍路のことをよく知り、愛している。
宿はテレビなど余計なものは一切ないが客に好評で廊下に貼ってあるお礼/感想の手紙、ネット記事でもよくわかる。
お客の一人であったらしい奥様はとても感じのいい人だ。
この日のお客は他に7人。そのうちの6人は広島・福山の6人衆。食事の前にリーダーが
何やら祈りの言葉を言い、皆で唱和する。
この後、あちこちで遭遇することになった。完全白服、完全な読経、決して急がない落ち着いた行動、どれをとってもお手本になるグループだった。
29日目 2013年4月8日 月曜日
遍路宿 桃李庵(久万高原町)→三坂峠→坂本屋→網掛け石→坂本小学校
6時半頃宿を出る。
道端には雪が残る。肌寒いが、雨でなく助かる。
福山衆とほぼ同一行動となる。
何とそばにスキー場入口があるではないか。愛媛でねー。
三坂峠(710m)のあたりから車道33号を離れて遍路道に入る。
急峻な山の下り坂となる。
野宿にも使われる休憩所があったが撮ってなかったのは心残り。
遠景が目に入る。
急峻な山を切り開いた段々畑。これじゃ豊かな農民にはなれなかっただろう。
何やらゆかしい時代劇にそのまま使えそうな家が見えてきた。(7:57)
有名な坂本屋だ。保護の対象となっており日によってはお接待所となっている。よく映像になる。
下り、里に近づいてくる。
番外霊場網掛石
坂本小学校入学式
山から里に降りて来、段々人の気配がしてくる。
そして、あっ!
入学式だ。
虚ろな世界から実の世界が見えた。
今日は4月8日の月曜日
親子の入学式に臨む姿。(9:11)
何と健全で確かな光景なのだろう。
思わずお願いして写真を撮らせてもらった。
一部ぼかしているが(残念、)細身の美しい母親
はにかんでいるがVサインの男の子
人形を持つおかっぱ頭の妹
無邪気さは最高の暖かさ、いやしに感じる。
梅佳代氏(2007年木村伊兵衛賞)が撮るような写真となった(かな?)。
ここで今日のこれまでのルートを振り返ってみる。坂本屋の前にあった地図だ。
次の札所まで近い。
浄瑠璃寺(ジョウルリジ)
真言宗豊山派 開基は行基 本尊は薬師如来
行基―弘法大師ーそして江戸中期、焼失のお寺を80年ぶりに再建した庄屋出身の堯音(ぎょうおん)の3人が歴史に残る3人になろう。
本堂に張られたままのお札が多く、今では珍しいのでは?
45番岩屋寺から46番浄瑠璃寺までは28.7キロと長いが、この先は短距離でつながる。
47番八坂寺までは1キロ15分だ。
47番 八坂寺(ヤサカジ)
山門前には”奉納南無阿弥陀如来”の赤い旗が。
そう、ここの本尊は阿弥陀如来
この本尊は天台宗の名僧恵心僧都の作と言われる。
(比叡山横川の恵心院に行ったことがある。写真を探してみよう。)
宗派は真言宗醍醐派。開基は役行者という古刹。
花祭りなのだ。ジャパニーズクリスマスなのにパッとしないなあ。
お寺を出ると何やら海か港という雰囲気。
大きな池だった。四国特有のため池か。
案内図によるとその縁に四国で2番目に古いという案内の石がある。ざっくばらんに置かれていた。
文殊院
遍路の元祖と言われる衛門三郎ゆかりの寺が通り道にあったので寄ってみた(10:32)。
番外霊場9番となる。
たたりで死んだ8人の子の墓が八塚として残っているが見た記憶は残っていない。お寺が接近して在るとついパスしてしまう。
それにしても冷遇を怒って人の子を死に至らしめるというのはたとえ話としてもいただけない。
しつこくいつまでも人を恨むべきではないぜ。十善戒の9番の戒めに反する。
48番西林寺(サイリンジ)
47番から4.5キロ1時間10分の距離。11:25着
門前の石作りの太鼓橋と橋より低い境内が印象に残る。それ以外はどうも。
49番 浄土寺(ジョウドジ)
48番から3.1㌔50分の距離。48番は西林寺、49番の山号は「西林山」。なので間違ったかとびっくりしてしまう。
歴史上有名な名前がちらつく。
光明皇后の娘孝謙天皇の勅願で恵妙上人が創建。
踊念仏開祖空也上人が4年ほど滞在し、口から小さな仏像を出している空也像を残したとされる。
納経所は別の門をくぐったきれいなお庭の中にあったと記憶する。
50番 繁多寺(ハンタジ)
50番というキリのいい札所番号だ。49番から2キロ30分の距離。
孝謙天皇の勅願で8世紀半ばに行基が光明寺として開基というから歴史は古い。
49番は空也上人ゆかりの寺だが、ここ50番は時宗の一遍上人が修行した寺として名高い。
これで今日五つ目。
桃季庵の山下りから出発してこの平地まで随分歩いて来た気がする。絶対的距離は別にして訪れる札所数が多いとそれゆえの疲労も加わる。
精神的にもかなりくたびれてきた。
その疲労がつのったからかもしれないがこの寺の印象は残念ながら弱い。
写真という記憶をたどるものが無かったら困ったことになっていただろう。
山門がすっきりしてお寺というより大名下屋敷という感じがする。境内もすっきりしていた(景観樹林保護地域)。
標高80mと高台で見晴らしがきき、そばに池があった。
(この項、2016年1月6日記)
繁多寺を出て次の51番石手寺(いしてじ)に向かう。
歩きながら、あれー何か変だと違和感を感じるところがあった。
繁多寺の印象より強いものだった。
都会の山の手辺りにある住宅地の光景なのだ。
四国に向かう全国の遍路客の出発地元で見ているようなものではなかろうか。
歩き遍路に合わないのだ。
ふ し ぎ
51番 石手寺
50番から3キロ40分の距離。見えてきた。
本日の長かった行程の最終札所だ。春樹じゃないがヤレヤレだ。
街の中心、道後温泉にも近く一般の観光客も多い。
熊野山虚空蔵院という。
国宝の仁王門にはその山号が。
独特の雰囲気だ。
境内は広く悪く言って雑然、よく言えば庶民的暖かさが感じられる。
ぐるっと一回りした。
花祭りの用意も。
お願いする納経帳もいつの間にか半分を超えていた。
まだ東日本大震災から2年。
重要文化財三重塔には
鎮魂
断原発の祈願が掲げられていた。
宿に向かう。重くなった足をひきずるように。
ここら辺は全国区の有名地、観光地。
お金が落ち、つぎ込まれるところだ。
整備されている。
例によって松山市のやや肩入れ過ぎる感のある俳句の表示。重要な町おこし材料だし、やむを得ないとは思うが。
やや歩いて小高いところにある今日の宿が見えてきた(16:10過ぎ)。
やっと約10時間の行動が終わる。
今日の宿はユースホステルだ。四国にはちらほらある。
靴底を見ると、あのビブラムでも欠け始めている。
500キロ以上歩いているのだからしょうがないのだろう。
昔の人は一体何回わらじを替えたのだろうか。