高知県[土佐の国] 修行の道場 16札所 384.6㎞

 2013年3月20日(水)から4月1日まで12泊13日  

 

徳島より160㌔長く、札所は7少ない。いかに昔は人が少なく、お寺も少なかったかわかる。今でも23番から24番までの左に広がる海、右に迫る山を見ながら歩くとその理由が理解できる。住み、田畑を作る場所が見いだせない。   

道を振り返る。御崎近辺
道を振り返る。御崎近辺

10日目 3月20日 水曜日 出発海部の民宿⇒泊民宿徳増 歩行約34キロ

 

 

 ごみごみした感じの海部の民宿やその近隣の風景は写真に撮っていなかった。感動するところがなかったからかもしれない。ただ、お店は割とあり、衣類も含めて買い物ができた点では意味あり。

 

 ところで遍路の雑誌、書籍を見ると薬王寺から先、特にJR海部駅あたりから先の

紹介記事はとても少なくなる。

 札所がない、単調、ページ数を減らしたい、歩き遍路の編集企画でも時間稼ぎにここは車を使うなどいろいろ理由があるようだ。

 協力会編「一人歩き同行二人」の地図編でも記載は不足気味だ。

 だが、結構味のあるところもあり、単純に省略するのも疑問だ。そんな場合、頼りになるのがネット記載の遍路記録だ。いくつかを検索すれば網羅される。ここでもネット文化の「功」を感じる。

 

6:25出発

ほどなくNASAというネーミングの遍路小屋。なんだ、こりゃ。アメリカの施設か?

と思ったけど地名「那佐」らしい。

7:45頃 道の駅宍喰温泉(海陽町)。モスク風の屋根が印象的だ。パンとお茶で簡単な朝食。自宅に不用品を送るなど雑用処理。気温11度、薄曇りだ。

 

歩きはじめると歩道足元にはスミレ。やっぱり自然豊かだ。

間もなく水床トンネルに入る(9:06)。638mと長い。出ると、いよいよ高知県だ。東陽町となる。

 

 今日泊まる予定の民宿徳増の看板が目に入る。ここから20キロ、尾崎橋を渡って3分とある。

 その奥には東洋大師(明徳寺)の看板も写っている。住職による修行体験ができる、野宿遍路のため通夜堂もあると書いてあった。

 

 頃東洋大師(明徳寺)前に着く。やたらに派手なはためく門構え。入る気がしなくてパス。あとで中に入った人の記録を読むとよさそうなことが書いてあった。外見だけで判断はよくないようです。立ち寄るかスルーするかの選択は難しい。

 ここら辺のお金持ちそうな家の写真を撮った。白色の漆喰の壁を支える大きな石の塀は芦屋で見る豪邸の雰囲気もする。

 

道は延々左に海を見ながら山裾を歩くことになる。

はるか前方に突き出した岬があるとあれが目的地かと期待してしまう。

着くとさらに同じ景色が繰り返してがっかりすることに。縦走登山でのピークの繰り返しと同じだ。

 

休憩所「ごろごろ」に着く(11:10)。県境から10キロ、室戸岬まで30キロの地にある立派な休憩所だ。公衆電話ボックスがあるのが新鮮だ。

 

法界上人庵[11:56]。トイレもあるようだ。ここも中には入らず。

つまらない送信塔?の写真。なんで撮ったかというと地名の表示がない道が続くが、珍しく「東洋御崎」との地名表示があったので。

冒頭の写真撮影もこのあたり。

 

廃屋が見える。

室戸市の標識だ。ムロトの音にはるばる来たぜ、と感慨深い。

ヨドノイソ休憩小屋には12:52着

ここら辺を歩く方はいることはいるが少ない。夫婦の遍路も2組ほど見た。

早い。

行程が長いこともあり覚悟ができている感じがする。

 

13:24、道路に面して立つ仏海庵(佐喜浜町)の説明書きを見る。

 

<辰濃さんの本(岩波新書「四国遍路」(2001年)を読んで>

 

 氏は44歳のとき(1974年)、仕事として半分、残りを個人としての想いで歩いたそうだが、その時は法香さんという庵主さんがいて泊めてもらったがこの本で書いている遍路(1998年から2000年にかけて6回に分けての区分打)の時は

「いまはもう法香さんはおらず、無人の庵になっていた。やはり一期一会だったのかと思う。

なぎさを埋めるゴロゴロ石の姿だけはそのままだった。」と書いている。

 

 私自身が都内墨田区で辰濃さんにお目にかかったのが2002年1月。このこと自体も一期一会だったのかもしれない。

 

 八幡宮などを目にしながら徳増に着いたのは15時20分。

 家はしっかりした民宿というより旅館に近いものだ。早く着いたせいか高齢のおばあさんに案内されたのは2階の海に面した広い良い部屋。

 後からドタドタ他室に入る男性陣の声。秋田の2人組だ。この日泊まった客は、私、秋田の2人、神戸の坊主頭の竹内さん、?の2人と計6人だった。

 もともと評判の良い宿であるが、食事が素晴らしかった。種類や材料がどうというより、味が抜群であった。銀座の一流割烹に引けを取らないのではないか。

刺身のほかお吸い物も、てんぷらもとにかくおいしかった。遍路以外の旅行でも宿泊に選ぶ価値は十分にあると思う。

 翌朝、日の出も見えてよかった。

 少し手前にあるロッジ尾崎も評判が良いようだ。どちらを選んでも満足するのではないか。

 洗濯代0、乾燥代100円、TV・空調代0台

 

10日目にして初めて、膝の違和感と足に水泡らしきものができてドキッとする。

やはり30数キロの歩行になると違うのであろうか。2種の靴下の組み合わせに原因があるかもしれないと翌日は替えることにした。

 

 

 

 

 

 

 

11日目 2013年3月21日 木曜日

 

民宿徳増から24番札所金剛頂寺まで(宿坊泊)

佐喜浜で見る夜明け
佐喜浜で見る夜明け

記念写真を撮って宿を出たのは7:26

天気予報によると、今日の高知は最高15℃、最低7℃とのこと。

宿を出るとすぐ夫婦岩

岩と海がきれいな所だ。

時間があればずっと見ていたくなる海だ。

こんなにきれいな海って初めてかも。

東山魁夷の描く海だ。

 

佐喜浜の海
佐喜浜の海

<御蔵洞(みくろど)へ>

 

室戸岬へ近づくにつれ、だんだん人里っぽくなり、建物も多くなる。

ありがたい休憩小屋、鄙びてはいるがのどかでレイアウトのよい神社など。

青年大師像も見えてきた。が、精神性は感じられず好きにはなれない。

室戸岬の記念石碑、そして御蔵洞(みくろど)へ。

左右2穴あるが、右側は落石の危険があるとのことで入れなかった。

1年前は両方に入ったが。

国(県)単位を歩き終われば一定の「到達・達成」を感じることになるが、この室戸岬や足摺崎は地名自体にそれを感じることができる。

 

<24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)へ>

 

国道55号から右へわかりやすい登り口に分け入る。坂道を登り、いくつかの謂れのポイントを経て山門に到着。

中には土俵もあった。鐘楼も雰囲気がある。宗派の説明については後述。

裏には宿坊?もあるようでなかなかよさそうだ。

帰り25番札所に向かって進むが、少し下ったところに駐車場がある。車で来る人はここに止めて登ることになる。

最高でもたかだか165mだが海を見おろせる絶景だ。

行当岬と思われる岬もよく見える。

下までは風情に欠ける広いスカイラインを歩くことになる。

 

<真言宗豊山派と興教大師>

 

 札所には、杖を突いたら水が出たとかそういういわれの看板はあちこちで見る。またかと思う。もう少し教義的な話をしても良いのではないか。

24番札所「最御崎寺(ほつみさきじ)」は弘法大師と興教大師の二人をあがめることを説明している。

 私も比較的最近まで興教大師(覚鍐上人)のことは知らなかった。知ったのは観光で2008年に四万十川に行った際、偶然外国人遍路を見たことがきっかけである。

その顛末を次にお示ししたい。

 

 せっかく車で四万十川に行くなら、同じ四国なのだから少しは本物の遍路に触れたいと思った。淡路島経由だと四国に入ったところにある第1番札所霊山寺(徳島市)と37番札所岩本寺(四万十町、JR窪川駅から徒歩7分)はコース的にも可能と思われ、実際そのようにできた(2008年7月)。
 1番霊山寺には朝早くに着き、遍路用品を売っているところを興味深く見学。
杖そしてガーデニングにも使えそうな菅笠をに購入した。
 寺を後にして四万十川源流まで行き(最後の30分は軽登山となる)、何十キロか下って四万十川町の市街地に入った。
 交差点には岩本寺の名前もうかがえる。四国では札所は歴史もあり、地理上の大きな目印になっているようだ。
 しばらくすると炎天下、歩き遍路の集団が目に入った。
 背負うリュック、靴、白装束、かもし出す雰囲気から直感的に本物の歩き遍路であることが分かる。この日京都は36.7度になった猛暑日。最も辛い季節に重装備で遍路することへの感嘆とキースジャレットのピアノを聴きながら安易な旅をしている自分を恥じながら近づいてみると、何と外国人(白人)であった。
どういう人達なのか、どういうつもりなのか知りたいと思った。
先に寺の前に駐車して境内に入ってしばらくすると彼らがやってきた。暑さで顔は赤く上気している。疲労の中、杖の先端を洗うなど形式を踏んでいる。
写真を撮らせてもらった。にこやかに被写体になってくれた。先達らしき男性1人と女性を含む学生らしき数人の白人グループであった。
 感動のなせる業か、何らかのもてなしをしたくなった。車まで取って返し、お茶のペットボトル5,6本と飴玉一袋を持ってきてリーダーにお渡しした。こちらの目を見、合掌し、ありがとうと受け取ってくれた。
 そして赤いお札のような紙切れをくれた。
遍路にお布施?をするとお礼に渡すものらしい。地元の人間でないのにこのような設定になったことの不可思議さを感じた。
紙にはヘニー・ファン・デル・フェーレ 、オランダ、 ○○才、とあった。
オランダ国籍に意外なものを感じた。そばにいた年配の女性(日本人)が有名な人であるようなことを教えてくれた。帰ったら調べてみようと思った。


< ヘニー・ファン・デル・フェーレ(Henny Van der Veere)さんと覚鍐上人>

 ヘニー・ファン・デル・フェーレさんはライデン大学(オランダ最古の大学でシーボルトの日本庭園もある。)の先生で2001年に「興教大師 覚鍐―教義の考察」という本を出している。
覚鍐(かくばんと読む。)に帰依しているのであろう。赤いお札の氏名の下に「鍐阿(ばんあ)」と書かれていたわけが分かった。

 真言宗について初歩的なことは知っていると思っていた。が、真言宗中興の祖、覚鍐(1095~1144年)のことなど全く知らなかった。空海が千年に1人の大天才でありあまりに大きな存在であるため、空海のおおよそのことを知ればそれが=真言宗と独りよがりしていた。素人の浅はかさである。
 ちょっと調べただけで彼がいかに今日の真言宗にとってかけがえのない人かがわかる。そして信じられないようなドラマチックな人生であったかもわかる。
 簡単に言うと、高野山は空海存命時から現在に至るまで一貫して活力あったわけではなくかなり衰弱した時期もあったようである。
 その腐敗・衰退した高野山の改革に打って出たのが覚鍐で、彼は金剛峯寺座主までになったが守旧派から住居を焼き討ちされ、命まで狙われ、高野山を後にすることになっている。
その著「密厳院発露懺悔文」の厳しくもある意味で近代的な内容には今なお胸を打つものがある。寄付金に寄生しながら、伝導・救済を忘れて安穏の日々を送っているだけの宗教家に読んでもらいたい内容である。
 西洋人から見ると中央集権的・官僚的なカトリックへの批判・改革運動に似通ったものを感ずることがあるのではないか。「懺悔」という響きも共感の一助になるものと思われる。
 ともかく、ファン・デル・フェーレさんが仏門(真言宗豊山派)に入信するということには相当のものがあったと推察する。

2008/7.20 オランダの先生と学生
2008/7.20 オランダの先生と学生
25番 津照寺(しんしょうじ)
25番 津照寺(しんしょうじ)

25番 津照寺(しんしょうじ)

 

24番最御崎寺(ほつみさきじ)から7キロ、1時間半の道のりだ。室戸岬には最御崎寺、津照寺、金剛頂寺と比較的短い距離に3札所がある。3か所とも真言宗豊山派だ。

 漁港、平坦地もあり住民も多く、需要があったのだろう。それぞれ岬の頂部や山の中腹で見晴らしのよいところに立地する。

車だと、一瞬という感じもする。歩けば漁港など町の雰囲気を味わいながら進むことになる。

紀貫之の船が泊まったという漁港を見ながら津照寺に到着。納経は本堂への階段参道中腹にある。ルーフ付3輪原付が止めてあった。

自動車は安易、しかし自転車も無理な体力、ひざに故障があって歩けないといった人にとって原付遍路も選択肢になるのではないか。後頭部にすだれがかけてあった。なるほどだ。

金剛頂寺(こんごうちょうじ) 山門
金剛頂寺(こんごうちょうじ) 山門

26番 金剛頂寺(こんごうちょうじ)

 

25番から約5キロ1時間40分の道のり。行当岬(ぎょうどうみさき)に立つ。

どういうわけか、宿坊の印象が強く、それ以外の境内、寺への途中風景は記憶が定かでない。写真に感謝だ。

校倉造りの霊宝殿もあった。校倉造りはもともと興味を持っていて本家の東大寺、東大寺で少し離れたところにあるもの、東寺、唐招提寺、東京国立博物館などで見ているが、ここ霊宝殿のものは鉄筋コンクリート製でしょ?。残念だけど今作るとなるとしょうがないか。

 

お寺には15時ころ到着。まだ閑散としていた。

宿坊はしっかりした上質な建物で、部屋には床の間もついていた。

7泊目の民宿山茶花に忘れ、送ってもらうことになっていた輪袈裟も届いていて奥さんより受け取りホッとする。

食事の場所も立派でホテルのようだった。泊り客には何度も歩いているベテランが多く、彼らの会話は同窓会のようでもあった。東北で震災に遭い親戚?の男性僧侶と車で回っている若い女性もいた。神戸の竹内さんもいた。

 

 12日目 2013年3月22日金曜日

 26番 金剛頂寺宿坊⇒道の駅キラメッセ室戸→吉良川→羽根岬→御霊跡→道の駅 田野駅屋→民宿きんしょう(泊)⇔27番神峯寺

 

 22日朝

車で行く人、何度目かの遍路を自転車で行う人、歩く人、いろいろな旅立ちだ。

お寺のあたりは高台の平坦地が広く、畑も目立つ。

不動岩と27番神峯寺へ分岐する立札が立つ。当然のように後者への道を選んだが、不動岩も由緒あるところなので余裕あれば不動岩によっても良いと思う(道は後で合流する)。

地図に載っていない小さな太子堂の前を通り、直下降となる。

降りきると目の前にしっかりした建物。どこか見た覚えがあると思ったら2012年車中泊で泊まった道の駅キラメッセ室戸だった。懐かしい(7:31)。

 

 

 

 

1時間ほど歩くと伝統的な街並みを保存している吉良川町の中心に着く。修理保存中の家も見られるが腐朽した柱も手っ取り早い全部取り換えでなく一部のみにするなど本格的な保存工事だ。

医院も大きく、それが目印にもなっている。

ところでこの海岸通りかなりの距離があるが、人里離れたところも多くトイレに苦労するところでもある。間の距離・時間まで書かれたトイレ案内まであった。

 

吉良川の街並み
吉良川の街並み

羽根岬~御霊跡

遍路道だと羽根岬には向かわず北方、山沿いの中山峠を通るのが一般のようだ。

いつの間にか一緒になった竹内さんとなんとなく海沿いの道を歩いていた。1.2㌔遠回りになるらしいが天気も景色もよかったので悪くはなかった。

羽根岬を通り(10:45)、奈半利町(なはりちょう)に入り、すでに中山峠からの道と合流している55号線を歩いていると道沿いに御霊跡と書かれている立派な石碑があった(AM11:01)。道を降りるといわれのある水がたまる窪んだ石があることを後で知った。

 

四国の3月22日は春爛漫。蓮華だろう薄いピンクが水彩画のようだ。

地図には載っていない休憩小屋もあり、休ませてもらった(11:38)。

自治体も海岸縁の道を整備し、遊歩道化している(11:57)。

27番神峯寺
27番神峯寺

27番神峯寺へ

 

羽根岬,御霊跡を過ぎ、奈半利に近づくにつれ、諸施設の集積が見られる市街地となる。奈半利川を越え、土佐黒潮鉄道ごめん・なはり線田野駅は道の駅田野駅屋になっていた(13:41)。

 

 安田川大橋には14:15到着。27番神峯寺へは1.5キロ先を右折と書いてある。

疲れがあるが、もう少しだ、頑張ろう。

 宿(民宿きんしょう)に行って泊り、翌朝登るかそれとも宿に荷物を置いてそのまま登るか時間的に決めかねていた。

登った後先に進むという竹内さんとはこのあたりで終のお別れとなった。

 地図を見るのを億劫がり、その結果登山コースを少し進んでから宿まで戻ることになり1キロ無駄歩きしてしまった。

 宿に着くと(15時ころ)ご主人から、この時間なら行って戻れる。行った方が良いとの指導を受け荷物を軽くして登ることに。雨具も置いて行こうとしたら、それを目にして持っていくべきとの御指示。帰り、割と強い雨に降られ、山小屋主人のような的確な指導力に恐れ入った。

 神峯寺は海抜430mと結構高く、海抜0同然の浜辺の宿からかなりの高度差となる。登山と心得ておいた方が良い。道も狭く急登となるので車も楽ではない。前年、軽自動車がオーバーヒートして登れなくなっていたのを目撃した。昔々上高地安房峠で似たケースを見たことがある。今や珍しい光景だ。

 

 少し休憩もしたことになり、荷物も軽くしたので体も元気回復。一気に直登(16時着 )。

 帰りは雨に降られた。時間も時間なので歩いている人はいなかった。

 途中平坦な広大なスペースに壮大な正体不明の建物があり、気になった。あとでご主人に聞くと現神峯寺のあるところは崩落の危険もあるのでそれに備えているとか言っていた。

 

 

 

 

 

13日目 2013年3月23日土曜日

民宿きんしょう→浜千鳥公園→道の駅大山→安芸市役所→赤野休憩所→遍路接待所→琴浜→道の駅やす→遍路休憩所かがみ(香我美)→伊能忠孝石碑→高知黒潮ホテル

 

 

 

民宿きんしょうの朝

朝、これから神峯寺を登って次に進むご夫妻もいた。

私は、昨夕登っておいて余裕があったので二つのことができた。

①食堂には秤りもあったのでザックの重量を計ってもらった。意外にも7キロ弱と想像より軽かった。もっと切りつめれば6キロ少しも可能だ。

②に、ファックスをお借りして雑誌社に校正原稿を送ってもらった。

 

さて、宿を出るとすぐ海沿いの道だ。並木のある観光地という感じ。

浜千鳥公園があり、安芸市出身の作曲家弘田竜太郎の石碑があった。

 安芸市>

 安芸市の中心街に入りにぎやかとなる。そういえば大学の時、先輩に安芸市出身者がいた。ずいぶん遠いところ出身だなと思ったが、そこにいることに妙な気もする。

 安芸観光情報センターに入ってみた。WCありの表示も大きい。遍路客を意識してくれているのかも。小学校みたいな市役所庁舎もそばだ。

 <岩崎弥太郎のこと>

 岩崎弥太郎関係の文字が多く目に入る。まだ、NHK大河ドラマ龍馬伝が終わって日も浅くその効果は消えていないように思われる。弥太郎の生家はここらへんから4キロ以上あり歩きの人が立ち寄るには遠すぎる。車の人なら行って損はない。土間に穴があり,なんだと聞いたらサツマイモの保存用とのこと。生家写真を添付する(2012年3月撮影)。

<赤野休憩所>

 安芸市から6.8キロの距離に赤野休憩所というところがある。見晴らしもよく、よく整備されている。天気も良く暖かだったので、しばし休憩とする。

<装備一覧>

遍路の身ぐるみを脱いで写真に撮ってみた。結構な荷物だ。ザック類が二つに分かれること、杖と笠があるこが登山と違うところだ。杖は鈴が当たるところが擦り減ってきた。

 足裏を広く保護するため、幅広のテープ類を使うこともあった。

 足が痛いと言っていた神奈川の30代の男性、ここまでよく来たがそろそろ電車に乗って帰るとのこと。履いていた地下足袋のような履物はリスクが大きい思う。

 

 このあたりの元軌道の道路(自転車と人間は通行可)は気持ちが良い。

そして並木となっている桜も満開できれいだ。

菜の花もきれいだ。高知のこのあたり、歩く距離が長くて大変ではあるが、ご褒美に良い景色を与えてくれる。バス・乗用車では味わえない(通れない)。

右にごめんなはり線、左に海となるが、高架線の下には休憩所もある。

 同行二人の地図9版には接待所(栗山映子)とあるが現場には「英子」と複数の表記がされていた(12:43)。要訂正かな?

<琴浜と松>

琴が浜の松林の間から見る砂浜に泊まる船も様になっていた(13:04)。

松林が広く思いのほか風情がある。ただ、松枯れ病の猛威に対抗するため農薬散布の様子がうかがえる。松愛好家には気に障るだろうが、病気と根が浅いという松の短所には留意すべきと思う。

 歩きを進める。懐かしいコンビニのお店を見てほっとする。住吉荘の案内も見えてきた(14:20)。当初は住吉荘か少し先にある香南市サイクリングターミナルあたりに泊まろうかとも思っていたが時間的にまだ頑張れそうなこと、そして黒潮ホテルがよさそうなことを聞いたのでさらに2時間程度歩くことにした。

<道の駅のこと>

 昔電車が走っていたトンネルを通り(14:30)、勝鬨橋のように跳ね上がった橋(14:40)などを見ながら道の駅やすには14:55頃到着。ただ、少し中に入ると名指しこそしていないが野宿遍路をターゲットにしたかのような不快な表示があったのでいやになりすぐ出た。

 道の駅は九州最南端から東北最北端まで車中泊をしているのでよく知っているつもりであるが雰囲気で二つに大別できる。一つは望ましいものと思うが、広く道を通る一般の自動車利用者に利用してもらいたいという気落ちが表れているところと、そうではなく地域住民のための利便施設という意識が強いところである。

後者はよそ者へのもてなしの心が希薄で、本来の道の駅の制度趣旨に反するのではないかとさえ思う(国の補助金をもらっている)。

 

 ここで思うのが、昨今の田舎暮らしブームのことだ。TV番組ではことさら田舎暮らしを美化しているが実態は必ずしもそうではない。このところをもっともシビアに言っているのが信州在住の芥川賞作家丸山健二氏だ。

結論から言うと、氏はそこに100年住んで百姓を続けないと仲間には入れてもらえないという。脱都会人は田舎に入ってニコニコ,ペコペコいい人を演出していないと暮らせないという。確かにTVの早期退職・脱サラ番組は皆そうだ。24時間、365日そんなに周りに気を使う生活ならかえって都会の方が楽ではないか。田舎人=善人、地方の道の駅=よそ者歓迎とは単純視できない。

 

 休憩所かがみ(香我美15:46)、レンガの塀が立派な岸本小学校(15:55)、安政地震を戒める石碑(15:59)、伊能忠孝測量記念の石碑(16:07)など香南市に見るもの少なくない。

30数キロは歩いただろう。疲れた体を届けるように高知黒潮ホテル にやっと到着(16:59)。門限がないので行動はその点楽だ。

 

岩崎弥太郎生家2012
岩崎弥太郎生家2012

14日目 2013年3月24日

 

香南市野市ホテル→28番大日寺→29番国分寺→30番善楽寺→高知市内ホテル[泊]

宿の朝食はお座なりなのが一般。が、黒潮ホテルのそれはよかった。

低料金でここまでできるとなると、伝統的な遍路宿は一般客が来ない辺鄙な場所でしかやっていけないのではと心配になる。

 ただ、朝食の開始時間が遅く、食べて、コンビニから荷物発送をしたこともあって2時間遅れることになった。

 

28番大日寺
28番大日寺

28番大日寺

入り口の細い階段が印象に残る。

その前にある遍路用品を売っているお店は、種類も多く、またお店の奥さんも感じが良い。見るだけで何も買わなかったのについ、おしゃべりをしてしまった。

境内はなかなか整備されて、庭もきれいだ。苔寺のような庭もある。4番大日寺同様28番も好印象だ。

次の29番と同じく真言宗智山派

29番国分寺へ向かう

28番から9キロ、2時間40分の距離となる。

その時間と距離は歩く者にとてもいいものを見せてくれる。

きれいな桜並木(10:10)

案内標識も心地よい(10:47)。

地元の人の熱意か、水路の浄化策が目に付いた(11:10)。

 

 28番から3キロの地(土佐山田町松本)にある松本大師堂は立派すぎて休んではいけないかと思ってしまった。

 現建物は2008年に落慶したらしく新築同然なのだ。落慶方法を詳しく紹介するブログもあって参考になる。*

 * 冬青(そよご)風

新しいということは古い建物を見た人も多く、ブログを拝見しても目にできて興味深い。

そばに桜の大木があった。途中に右に大きく張り出した枝が特徴的だ。

甚兵衛桜と言うらしい(11:20)。ただ、根元の青い花に惹かれた。

小高く見晴らしもよく昔からの名所なんだろう。

 

甚兵衛桜と花
甚兵衛桜と花

<善根宿と外国人利用者の記帳>

 

 善根宿があった。中には布団も用意されている。日本語のわからない外国人も利用し、記帳しているのが興味深い。

ドイツ人のようだが、thanks to~ と韻を踏むように書いてあった。

縁も所縁もなければ来るはずのないローカルなところに全国、外国から人がやってくる。遍路文化は四国にとってかけがえのない財産です。

国分寺金堂
国分寺金堂

29番国分寺 歴史あるお寺はたとえ建て替えがあったとしてもどこか違うものがある。国分寺はその典型だろう。近くに紀貫之住居跡もあるというこのあたりは歴史を感じさせてくれる。 国分寺では本堂ではなく金堂と言っているようだ。杮葺きで重要文化財となっている。

納経所は門の中に入ったところにある。この点も28番に似ている。整ったきれいな庭で桜を撮影していた写真愛好家もいた。

 

門を出て、次の30番に向かうとば口がぞくっとするほど感じがいい。奈良、唐招提寺のわき道を思い出す。

 

 

<春の小川>

国分寺から善楽寺までは7キロ、2時間の道のりだ。ここで神様、いや仏様は歩くものにビッグな贈り物を与えてくれた。

といって物質ではなく景観だ。春の小川は誰でも好きな光景だろう。しかしそのイメージに合うものは少ない。幅、深さ、草と土の縁、カーブといい最高のものを見せてくれた。


30番善楽寺

途中、登り道の脇に5号蒲原(かもはら)休憩小屋があった。覗くと神戸の竹内さんの野宿御礼の筆が。一定の間隔で前を歩いているようだ。

どちらかに何らかの理由がない限り二度と合流はできない。寂しさを感じるところだ。逢坂峠を過ぎ、お寺に近づくにつれ道路の高低、混雑もあり、落着けない雰囲気となる。レインボー北星という宿の看板が目立つ。

なぜか疲労感を覚えながら善楽寺に到着。

正直、がっかり。オーラは感じられない。それなりの理由を後で知って納得する(後述)。

 

<善楽寺と安楽寺>

 今でこそ30番は善楽寺に落ち着いているが安楽寺との間で長い紛争があったのだ。

既に紹介したことがある37年前の本が参考になるのでこれを基に紹介させていただく(中国新聞社 死装束の旅)。

 

 土佐神社はかって善楽寺、神宮寺の二寺を別当寺とする土佐一宮。明治初めの廃仏毀釈により両寺は廃寺となり一宮は現在の土佐神社に変身。仁王門から仁王像、鐘楼から鐘がほおり出された。

 明治9年に30番札所は安楽寺に仮復活した(本尊を預けていた国分寺から移す)。

 善楽寺が復活したのは昭和4年だが、安楽寺は30番札所を主張し、本尊は戻らず紛争勃発。「逢坂峠で遍路の袖がちぎれるほどの奪い合いをした」との古老の話も紹介しながら霊場というより納経代金稼ぎの修羅場と執筆の記者は表現している。

 昭和17年になって善楽寺を30番札所、安楽寺を30番奥の院に決めたが、不履行のまま戦後の生活難で善楽寺は無住となる。。

 以来、安楽寺住職が善楽寺住職を兼務。

 今はどうなっているのだろうか。

 

(追記)もっと古い本が家の書棚にあった。 

    昭和43年保育社発行のカラーブックス「四国遍路」


「四国へ渡るには,今はまだ船を利用しなければならない」という時代だ。
30番札所として安楽寺を掲げ、今となっては珍しい同寺の写真を掲載している。
両寺の争いについて著者西村望氏は次のように厳しく指摘する(31ページ)。

 長大な歴史を積み重ね、衆愚を救済し、人の心のよりどころとなった寺を、末世の僧があたかも私物であるかのように扱うのは、仏教の頽廃を自ら吹聴しているように思えてならない。
 寺はやはり、粛然としていてほしいものである。


< 高群逸枝は どちらに行ったのか  >

娘巡礼記(岩波文庫堀場清子校注2004年)66では次のように書かれている。

「8月28日,やっと立つことになった。30番(安楽寺)、29番(国分寺)とは滞在中におじいさんが納札しておいでになったので28番へ。」

 おや、30番、29番はパスしているではないか。それはともかくカッコ内の寺名は堀場さんの注なので要注意だ。67の注で次のように記している。

「伊東老人が逸枝に代わって札を納めたのは、安楽寺以外ではありえない。」「30番札所に足を運ばなかった逸枝は,両寺を取り違えたものと思われる。」

 


<土佐神社>

 四国遍路というと神社に対して関係はないと宗教原理主義的に見ざる聞かざる的態度をとる人が多いが、30番をはじめ、神社との関連因縁が少なくないのであり、もう少しおおらかさがあってもいいのではなかろうか。

空海自身、さらには釈迦自身が旧来の宗教を取り入れているのだし。

土佐神社の様子を撮ってみた。寄付金がいくらとか、不要な彫り物・看板が見当たらない点は見習うべきものと思う。

 

時間的に31番竹林寺まで行く余裕がなかったのでその手前にある今日の宿、ホテル土佐路たかすに向かう。

市街地らしい広い道路と車に現実に引き戻される。

市電?が懐かしく、都電荒川線を思い出す。

 四国遍路に戻る。

 記録①徳島に戻る。

 高知県②(31番以降)に進む。

(2014.11.9記)

 

当園の概要

 

完全オフグリッドです。

 土地:1千数百㎡、一辺は舗装公道に面する南向き方形平坦地。病院、ホームセンタ、コンビニが其々複数あるもなぜか都市計画区域外。2002年取得

 山小屋:柱を4本建て、それに斜めに屋根をかける竪穴式住居構造。白川郷の合掌造りに似ているところもある。床は土間。 

 

電気:独立型太陽光発電 第1装置 24V1KW発電,

第2装置 12V約200W発電

それぞれ1500Wインバーターを介してサイン波AC100Vで使用。他にバッテリなしのシステムがいくつかあり。

 

水: 雨水利用:3カ所の屋根(PV架台を含む)で集水して1トンくらい貯水:下屋屋根などを活用すれば増量は容易だが使いきれないので計画なし。

飲料水:〇〇の駅で150m深井戸の検査済み水をもらえる。

 

汚水処理:新見式準拠

 

改良及び近い将来の計画

①止水(雨水)対象の簡易緩速濾過装置(今後)

②山小屋の改良

・二重屋根化(終了)

・土間床を防湿コンクリート部分と伝統的三和土部分にすること(終了)

・外壁に沿って犬走敷設(終了)

・ポリカ平板で大型ひさし(終了)

・無線ANT用パイプ設置(終了)

③小屋内土間に蓄熱のための大きなコンクリート桝+FRPバスタブを設置(終了)。これを活用する具体的方策(今後)

④厳冬期無暖房自己体温のみで過ごせること及び建物が崩壊してもその部分は現状維持が可能な小屋内シェルタールームの建設(終了)。ふだんはゼオライト、粒状活性炭の少量備蓄庫として使用。換気はDCファンと塩ビ管によっている。

⑤入口ドアの断熱・防音・採光化(終了)

⑥入口両脇に収納庫設置(終了。片側はバッテリーバンク庫)

太陽熱利用のエアヒーター(装置は数個完成)。その運用等(今後)

 ⑧ 無線通信(モービル)

430・144MHZ FM50W出力(終了)

余剰雨水を活用して平城宮跡東院庭園にある洲浜の池をイメージする小さな浅い水辺を作りたい(規模は畳1~2枚程度)。

 

 

 

 

1kw独立型太陽光発電
1kw独立型太陽光発電
初めての雨水利用
初めての雨水利用
こちらは絶版です。
こちらは絶版です。