四国歩き遍路の記録
39日目2013年4月18日(木) 81番白峯寺~
白峯寺(しろみねじ)に向かう。6.5キロ2時間の距離。
宿を少し早め、6:12には出た。
そうそう、ここにも誰かのお土産スペインの巡礼記念が置いてあった。
宿の名えびすやが入っている地図を見てもわかるように途中から左に入って81番、その後82番へ向かう。
一本松には7.24着。
下乗と大きく掘ってある石碑には驚く。この右側にある石柱は1300年代の製作らしく江戸時代からすでに保護のため屋根がかけられている。
前回も述べたが坂出市の遍路に対する取り組みは深く、ホームページも充実していて嬉しい。不正確なブログの記事よりずっとまとも。一読をお勧めする。
8:06到着。入口の門の脇に出た。
境内に入る。標高280m。
開基は弘法大師とあの智証大師であるがどうしても崇徳院の一連の経緯が印象濃いのでそちらに引きづられてしまう。
先ずは七棟門(写真からは五棟がわかるがあとの二棟は内側に)それから本堂、大師堂、阿弥陀堂
略縁起(左写真)の一節
「然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都にかがやききれば」とあるのにドキッとする。大河ドラマでも 爪が伸び、目が血走り、髪の毛が逆立つ怨霊のシーンがあった。
崇徳院を演じた俳優さん、その後NHKEテレの美術番組で進行の役を担当していたが怨霊のさまがダブってしまう。
後から祭ったせいか陵や頓証寺は門を入ってから左に曲がったところに位置する。
菅原道真や平将門と違って天皇自身に関するのものである。現代の皇族といえる高松宮殿下の800年御香料の石碑があった。
82番 根香寺(ねごろじ)
本日二つ目の札所に向かう。
81番から5キロ、1時間40分の距離。
総じて高台を歩く心地よい伝統的な遍路道だった。
4月の季節らしい緑に木の花。
昔、古文で水を「あか」というと習ったがその「あか」が水の出る古いスポット名として出てくる。
陸軍用地なる言葉に時代を感ずる。今もここら辺は自衛隊の訓練地として関係する模様。
沢蟹もいる自然豊かなところでもある。
遍路を離れて、ハイキングとしてもいい道だ。
足尾大明神
前を通っただけだったが足やひざにごりやくがあると後で知った。
遍路は寄るべきであったかも。
明るい高台(400m)の大きな曲がり角を歩いていると車がそばに来て中の女性から記念の紙製品を御接待にいただく。
オレンジパークという名称が記憶に残る。
ちょっと先の細い遍路道から根香寺に向かう。
仁王門を入って階段の下りと登りがある独特の地形だ。
途中に見るモミジの「緑」の美しさに目を奪われる。疲れた足を止めて写真。
役行者像は歴史は古くないが珍しい。
白こうケヤキが有名だったがここもすでに枯れ記念のものになっている。
元の姿はというと、40年前の本には載っていた。
注(古い本にはこういう価値もある。2017年4月28日京都大名誉教授桑原氏の蔵書1万冊を京都市立図書館が廃棄してしまったことがニュースとなった。)
83番一宮寺(いちのみやじ)へ向かう
10:25 82番根香寺を終了。
次の札所83番一宮寺(いちのみやじ)を目指す。
そこが本日2013年4月18日最後のお寺
12キロ4時間とまとまったものになる。
標高365mから平地への山下りだ。
桜と瀬戸内海風景だ。
麓に降りてくると、意外や意外
何とも落ち着いた盆栽の街
鬼無(きなし)だけど木あり。
ここに盆栽の集落があるとは知らなかった。
同じ内容では埼玉県の盆栽村(さいたま市)が有名で、何年か前には盆栽美術館ができ、(この項をかいている2017年4月29日)世界盆栽展覧会が埼玉アリーナで開催されているとニュースにたびたび出ている。
鬼無の盆栽集落の方が大きい。同じ内容でも首都圏だと大きく全国報道されるようで考えさせられる。
飯田お遍路休憩所
遍路道の説明文のある顎なし地蔵を過ぎ、83番6キロ手前にあったのがこの休憩所(12:20着)。
きれいな庭までついている豪華かつ居心地の良い周到な休憩所だ。
ご自身の体験もあるのだろうか何冊かの遍路に関する小冊子も置いてあった。
大阪の成功した実業家河野氏が生家をもとに作ったとある。飯田は町名。
疲れた体には天国。暑かったので冷たい飲み物やお手製の梅菓子などをいただきながら30分もゆっくりさせてもらった。
感謝しながら後にする。あと2時間弱の距離だ。
こちらがいただいた小冊子
空き地に咲くレンゲを見、河川敷きを通って橋を渡る。
幅1mに満たないそれでいておそらくは数百年の歴史はあるであろう遍路道。
いいなあ。
昔は田んぼのあぜ道だったのかも。
いつの間にかホームセンターのなかを歩くことになっていた。マークが目につかなくなり
道に迷ってしまった。一回り無駄に歩いてから何とか脱却。
かなり歩いたところに遍路小屋があった。写真にその名が写っておらず名称がわからない。と思ったらそこに掲示されていた新聞切り抜きを写していたので何とか分かった。
不鮮明だが添付する。あとの記録のためにはとりあえずなんでも撮っておくべきということか。
24番高松・一宮だ。一宮寺に近い。
お寺らしきものが見えてきた。
そして到着。14:36
仁王門、本堂、大師堂と廻る。
別当寺と神社
このお寺、奈良遷都前の大宝年間に義淵僧正が創建したとても古いお寺。
当時は大宝院と言って法相宗。
讃岐一宮田村神社が建立されてその別当寺になり一宮寺と改称。17Cに別当寺を解消されて完全な仏教寺に(真言宗御室派)。
長い間別当寺であったことを考えると田村神社の存在は大きい。別格霊場以前にこういうお寺については当該神社も参詣すべきと思う。
同行二人の地図には載っていないが添付の看板絵図には記載されていた。
一宮寺を出て今日の宿東横イン高松に向かう。
と言っても近くはない。まだ6キロ以上ある。
都会の大通りだ。
全国区のチェーン店が目につく。こういうお店に対しては地方独特の個性が見えずにつまらないというべきかもしれないが、知った名前を見ると妙に懐かしくほっとしてしまう。
ネットカフェもあった。神戸の竹内さんなら利用するのだろう。ビジネスホテルより安くなるし。
政治家三木武吉氏の銅像だ。総理になった三木さんより前の鳩山内閣時代の人。
そのうち大公園の入口らしいものが見えてきた。あの有名な栗林公園だ。その名園,名庭ぶりは高名で見たいところだがそうもいかない。
5時半ごろやっと宿が見えてきた。
39日目約30kmの歩きも終了。疲労は深いがあと5カ所。
四国歩き遍路40日目 2013年4月19日金曜日
前夜泊まった東横イン高松はとても良かった。一時不祥事で叩かれたこともあったがたった4500円なのに朝食付き。朝刊ももらえたし部屋も広い。1階のラウンジも広くて新聞も読めてよい。PCも2台あって使えた。
84番屋島寺(やしまじ)へ
今日は40日目。キリの良い数字だ。札所もいつの間にか残すところ5箇所。疲労とともに少し遠くない達成の予感も抱けるようになっている。
84番まで8.3キロ。2時間ちょっとか。
モーニングを食べたのでホテルを出たの遅く7:40頃
出るとそこは市の中心地。勤めに向かうサラリーマンが歩く時間でもあり違和感も
感じてしまう。
都会風景の中、白衣をまとう場違い感を抱きながら歩いているとスーッとスクーターが寄ってきてストップ。
サラリーマンらしき男性が一言二言述べ、財布をだして現金1000円のお接待をくれた。
忙しい時間なのにと熱くなる。
古いものの本にはケーブルカーで登れるようなことが書いてあるが看板にあるように停止している模様。
写真ではわからないが舗装されている参道がなぜかとても急で長く感じられて仕方がなかった。
どうしてだろう。蓄積した疲労のせいか?
どこの地域でも早朝、近所の公園でラジオ体操をするお年寄りグループがあるがここではこの坂道の上り下りがそれになっている感じがする。それほど多いのだ。
数が多く元気な姿に負けている気さえしてきた。
あとで思うのが自分はお寺以外の光景も写真に撮っているが人を撮っているのはとても少ない。まるでノイズ扱い。
万物すべて仏性の表れを忘れたよくない考えではないか。個人情報がどうのこうのというが
それは弁解。いくらでも工夫できるはず。
参道の途中に二つの番外霊場があった。
手前が屋島御加持水(おかじすい)、10分歩いた少し先にあるのが食わずの梨
手前はご利益で水が出たこと、後者はケチって弘法大師に梨をあげなかったことから食べられないなしになってしまったというお話だ。説明文と石像が残る。
84番屋島寺到着9:44
開基は律宗の鑑真。今は真言宗御室派。
源平の合戦場、壇ノ浦を見おろす景勝地にあることからも観光地、観光寺の印象が強く一般の観光客が多い。それだけ宗教性は希薄になってしまう。
立派でモダンな宝物館もあったが入る気にはなれなかった。
85番八栗寺へ向かう。
それよりもここを出て次の札所へ向かう途中の道に何かを感じた。
倒産したのか廃業のうらびれた無人ホテルの前を歩き山を下る。
途中車道を横切って下るところもあるがいずれにせよ予想を超える急坂。登山の下りと言って差し支えないものだ。
いつの間にか福山の6人衆と一緒になっていたが、リーダーの男性先達がこのくだりは厳しいので注意するようにと話すのが耳に入った。
あとで知ることになるがこの急峻さは昔からのもので、その厳しさが守りに良いと平家側が屋島を拠点にした理由にもなっていたのだ。
今、人は屋島ドライブウエイを車で通るだけだから身をもって屋島の急峻さを体験できるのは歩き遍路だけということになろう。
歩いたことに感謝だ。が、予想していなかったことなので途中の厳しいところの写真は撮れていない。
急峻を降り、麓に至ると歴史の凝縮したような場所だけにあちこちにそれを教える碑が目に入る。
佐藤継信
安徳天皇社
やはり過去実存した天皇にかかわるところになると現代の皇族も足を運ぶようで違い
を感じる。立派な石碑を見る。
そのほかたくさん
山の上に小さく見える建物。あれが廃墟になっていたホテルかも。
あそこから降りてきたわけだ。
追記(2017.5.17)
1982年のヤマケイの雑誌には「ホテル壇ノ浦 愛業廃業」「ホテル甚五郎」が載っている。第9版の例の地図には「元ホテル甚五郎」のみが載っている。後者だろう。
安徳天皇社の説明文に合点がいった。
「壇ノ浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峯~」
平宗盛の心境を830年後の今でも歩き遍路なら皮膚感覚で理解することになる。
今度は菊王丸の墓
壇ノ浦その他たくさん
橋(高橋?)を渡って間もなく須崎寺がある。
遍路にかかわるあの真稔のお墓がここにあるとは思わなかった。
85番八栗寺(やくりじ)が見えてきたと思ったが登山口のロープウエイ駅のあるところだった(2013年4月19日11:39)。
参道が続くがお寺の背後に位置する4っつの峰は見えている。かっては5峰あったが(だから五剣山と言われた)、1706年の地震で一つ減ったのだ。
85番八栗寺(やくりじ) 真言宗大覚寺派
直前のお迎え大師を見て(11:58 新しすぎていまいち)、鳥居をくぐって正午に到着。
この寺で不思議なのがやたらに鳥居がある点だ。
資料にもその点触れていなく不可解。
だが、寺としては屋島寺より落ち着く。
朱色の多宝塔が目立つ。
開基は829年弘法大師であるが、天正の兵火で消失し、江戸時代に藩主の松平家により再建され同家の祈願時になっている。
その縁か聖天(しょうてん)堂に祭られている歓喜天は後水尾天皇の中宮東福門院(徳川家康の孫娘)から贈られたもの。
後水尾天皇は私の好きな修学院離宮を作った天才的ガーデンデザイナー。皇后もそれに縁があるし。
30分ほどで後にする。(12:34)
2017.5.10記
高群逸枝の記述はどうか
これほど歴史の濃い場所だし、古典にも造詣の深い彼女だしどう感じてどう書いているのか知りたくなった。
逆打ちで探しにくかったがやはり書いていた。
八栗寺の方は省略して次の屋島寺へ向かう箇所を(岩波文庫より)
人家を縫い塩田を過ぎ須臾にして山にかかる。途中古墳あり、曰く菊王丸の墓、曰く佐藤次信の墓、曰く安徳天皇の行在所ー険しき坂をよじ登りながらも私の胸には絵巻物のような源平の戦いが、うっとりと映っては消え、消えては現れた。那須与一の扇の的だの何という美術的な場景であったろう。
桜の花びらがこぼれ落ちるように折しも赤い夕陽の海に沈んで消えた数々の人の命も哀れに美しく思いやられていたましい。
それから幾時代月日は無限から無限に流れ人は生まれて死んでいく。
いつの間にかお寺に着いていた。八栗の負けぬ名刹である。礼拝黙とう数刻にして下る。
麓の茶店で源平餅をすすめられしばらく休んでいるうちに雨はすっかりやんだ。
今日は何処までいくことぞ(茶店にてしたたむ)。
2017.5.11記
86番志度寺に向かう。
6.5キロ、1時間30分ばかりとなる。
電柱にたくさんの→
海に出る。志度湾だ。
道の駅 源平の里むれ。自転車用のモダンなリヤカーを目にした。
きれいな海だ。対岸が見える。
1キロ程歩くと平賀源内関係の建物や案内が目についてくる。やや多過ぎる感じ。もう少しスッキリさせた方がいいと思う。
86番志度寺到着 14:18
海(志度湾)に面していることには後まで気が付かなかった。
それより創建は625年と古く、開基者が藤原不比等と初めて知った時は驚いた。
志度寺にまつわるお話というと開基者藤原不比等と海女との因縁になるのが一般だが、それより娘光明皇后とその夫聖武天皇に連なる人であることの重さを感じる。
志度寺を示す大きな石柱の中に入ってわからなくなるのが仁王門の手前両側に寺院があること。それぞれ常楽寺(右側。平賀源内のお墓あり)、圓通寺(左側)と「寺」を名乗るので、どういう関係か?だった。
答えは塔頭(たっちゅう)ということ。検索すればすぐ出てくる。
鴨長明のかかわる京都河合神社が下鴨神社の摂社であることと似ている。
上の境内地図を見ればわかるが、診療所などあれ?と思われる施設が散見され不思議な感じもする。
きれいな五重の塔、正倉院の現代版と言えるような建物が印象に残る。
本日の札所を追加して87番長尾寺へ向かうことに
今日、40日目に打つお寺は84番、85番、86番の三カ所の予定だった。
現に志度寺を出る時間は14:40。宿に着くのが15時としてまあ普通の時間だし。
だが、幸いまだ体は動く。次の87番長尾寺まで7キロ2時間の距離。
納経の時間には間に合わなくても、結願の寺に近づいて置けば後の予定がそれだけ立てやすくなる。
というわけでもう一カ所回ることにした。
86番志度寺から4.2キロのところにあるのが87番の奥の院になる玉泉寺(ぎょくせんじ)。15:34着。
このあたりの案内・説明板は丁寧でよくできている(さぬき市)。
お寺が見えない変哲なき風景の中、杖を突きながら一人歩くのもいい。
これぞ遍路という気がする。
この橋は広瀬橋だろう。志度寺から5.2キロの場所。
7~8分歩くと遍路休憩所があった。
次の橋を渡る。もう遠くない。
小さな一歩がいつの間にか私を運んでくれている。
長尾寺(ながおじ)
開基:行基、本尊:聖観世音菩薩
宗派:江戸時代に入って高松藩主松平頼重の命で天台宗に改宗(他にもあり)
義経の愛妾 静御前が尼になった寺として有名。
下の写真は順番に裏から見た仁王門(鐘がつってある。クスの大木が見事)、
本堂、大師堂、東門。
今日の宿はお寺に直ぐそばの「ながお路」だ。寺前の道両側二棟に分かれる。当初予定の「あずまや旅館」は何かの都合でやっていなかった。
結願前最後の宿と考えると感無量。
しみじみ部屋を眺める。そして最後のデジカメとスマホの充電となる。
ここまで来れた幸運と休みなしの酷使にトラブルなく耐えてくれた自分の足に感謝。
追記
「死に装束の旅」によると遍路を終え、入水した八代目市川団蔵が長尾寺で撮った写真が載っている本があるそうだが見たことはない。木村俊文住職(当時)に「本当に色即是空がわかったような気がします」と話したとのこと。
この二日、歌舞伎役者中村獅童の病気のことが話題になっている。なんだかなぁ。
2017.5.19記