15日目 2013年3月25日
ホテル土佐路たかす→31番竹林寺→32番禅師峰寺→33番雪蹊寺→34番種間寺→ビジネスイン土佐(泊)
歩行距離約28㎞
昨晩、ホテルには5時ごろに到着した。2階ではドリンクサービスがあり朝の朝食も無料となかなか良かった。ただ、洗濯と乾燥はとても混雑していた(有料)。
原稿の要修正箇所をやっとA41枚にまとめ、、コピーで濃くしてファクス送信した(60円)。こういうことができるのがホテルの良さだ。
25日朝。五台山に向かって市街地を歩き始める。
遠くに低い台地が見える。
交通量の多い道から、脇道に入る。
遍路道は住宅に囲まれたような細い道なる。
道をほうきで掃いていた高齢の男性がいた。
なんとなく目が合い、挨拶をし、そして話し始めることに。
「どこから来たのか」
「○○から」
「そうか、いいところだ」
そのうちなぜか戦争の話となった。
軍艦に乗っていたらしい。米軍の攻撃を受け、沈没することに。
幹部は船に残ったとのこと。
自決しようとして舌を噛み切ろうとしたが死にきれなかったと言っていた。
ただ、舌を噛み切ろうとしたのはご当人か、ほかの人かはっきりしなった。
この男性,お年は93か94と言っていた。とても背が高い人だった。
初めて逢った人との数分間の会話。しかし年齢からも二度と会うことのない人との会話だった。
追記 2015.5.28
2015年は戦後70年。そのこと、そして戦艦武蔵の沈没場所が分かったということがニュースとなった。
武蔵の生き残りの人の記事も拝見した。90歳以上の人が多い。みなさん20歳前後だったのだ。上の人と重なる。
五台山・牧野記念植物園に入る。
遍路道はいつの間にか植物園内に。特権というか、遍路道はこの公園ができるより数百年前からある道であり、あとから立ち入り禁止とはできないのだろう。
開園前の静かな庭園を黙々と歩く。
きれいな植物、銅像,サギのコロニー、満開の桜を目にする。
ここの独特の花飾りー大きな丸い鉢にに飾られる花ーを愛でる。
出口に近づくにつれ何人かの遍路の姿も見えてくる。昨晩この近辺に宿をとった人なのだろう。そっと出て隣の竹林寺に向かう。
31番 竹林寺
四国出身の知人に88か所でどのお寺が一番良かったかと聞かれた。
躊躇なく竹林寺と答え、知人もなるほどという顔をした。
一口で言えば雰囲気がよい。
庭園、ランドスケープという外観面で優れている。→くだらない寄付金誇示の石碑、成金趣味の庭石見せびらかしがない。
真摯な宗教性が感じられる。→本堂での朝の勤行風景を初めて目にできた。
それでいて不要・過度な押し付け的宗教色はない。
入り口に近い階段のなんと美しいことか。天上界に連なる道であるかのよう。
本堂はバリヤフリーのため、木のスロープとなっている。
本尊 文殊菩薩
真言 おん あらはしゃ のう
宗派 真言宗智山派
待所待もバラックではなく本格的なつくり。中で休み、お茶とお菓子を頂いた。
花皿鉢の説明があった。
修学院離宮の後水尾天皇による大きな花を生ける石製水盤を思い出す。
32番へ向かう。
<武市半平太旧宅>
歩いていると旧宅を示す大きな看板が目に入った。大河ドラマ「龍馬伝」で準主役的立場にあった人の旧宅とあれば見ないわけにはいかない。
道路から50m位左に逸れるが向かった。
しかし、私以外、結構目に入る遍路は誰一人立ち寄ろうとせず、次の札所に向かう。ま、竹林寺を出たばかりで道草をする余裕がないのかもしれないが。
立派な案内板はあるが、今でもどなたかの住居になっており、入りにくい雰囲気だ。
門から中を拝見して退散した。
(HPを見ていたら、ある遍路が飲み屋で武市の末裔の人と話になり、その旧宅を見るように勧められたとあった。面白い。表札には「坂本」とあった。竜馬と遠い縁でもあるのだろうか。)
同行二人の地図には載っていないが、このくらいは載せるべきではないか。宿と歩行ルート以外の情報量は少なすぎる。まあ、しょうがないかも。
32番 禅師峰寺(ぜんじぶじ)
竹林寺から8㌔、2時間10分。
石土トンネルを通り、石土池を左に見ながら歩く。
不動明王後ろの奇岩が印象に残る(ピンボケ)。
境内は見晴らしがよく、海の向こうに桂浜に連なる浦戸大橋が見えているのを今になって気が付いた。あそこを渡って進んだのだ。
<禅師峰寺から雪蹊寺へ向かう>
浦戸湾横断ルートは船か橋か
最初で最後の歩き通し遍路と考えていたので、歩くことにこだわり、浦戸大橋を渡ることにしていた。
そのため278号ではなく海沿いの14号道路を選んだ。
自分以外に歩く人は見らず淋しくもあったが、天気もまあまあで海、船の姿を見られ悪くもなかった。
おもしろかったのが、津波避難用の船を目にすることができたことだ。こんなものが実際に手配されているとは。
これだったらあの東北大震災にも耐えられたかも。
歩き続けると、おや、渡るべき橋がかなり上の方に見えるではないか。
登り口まで戻ることに。かなりのロスをしてしまった。
橋の印象→初めはよいよい、だが途中から恐ろしい状況になる。
想像以上に高く、下を見るとぞっとする。急性高所恐怖症になってしまったかのよう。
歩道はあると言っても人間の肩幅レベルで杖が道にはみ出る。
風は強いし、車はそばを通るし。
非人間的な人工物を歩いても効用なし。時間も1時間余計にかかっているもよう。
空海も、山頭火も、船を利用しているではないか。
先は長いので進行逆方向となる観光スポット桂浜と竜馬像は参観しなかった。
参考 高群逸枝の横断方法
彼女は逆に回っているので33番雪蹊寺の次に東進している。
丁度,このところが記述されていた。
「この寺(雪蹊寺)を出て長浜というところを通り、浦戸湾口種崎(たねざき)の渡により、対岬(タイコウ)に着き,歩(ゆ)くこと二十何町、このあたり土佐造船㈱の事業着々歩みを進めつつあるやに見受く。須臾(しゅゆ)にして松原に入る。」
高群がここを歩いたのは1918年。もうすぐ100年前ということになるが、2013年にも長浜と種崎(たねざき)という地名、そして渡船場が存続していることに感激する。こうなるとむしろ船で行くべきといえるかも。
なお、須臾(しゅゆ)にして、という言葉遣いも生まれて初めて知った。ほどなくという意味。松原とは今の種崎千松公園なのだろうか。
33番 雪蹊寺(せっけいじ)
清涼感のある寺名だ。長宗我部元親の法号。宗派も元親の臨済宗妙心寺派。
山本太玄と盲目の弟子山本玄峰のかかわりが有名。
13時ちょっとに着いた。暑くなって来、水を飲むことが多くなっている。
入り口でどこか他の寺と違うものを感じる。なぜか庶民的なのだ。山門がないからと気が付いた。なくていいと思う。
案内看板を見、例の廃仏毀釈でずいぶんと苦労をし、廃寺にまでなったことを知る。後ろの広範囲な社域に複雑なものを感じる。
風景とお寺ばかり撮っているが、人間も大切。おそらくバス遍路と思うがその集団を撮ってみた。きょとんとした子どもがかわいい。
途中一部一緒になったおばさま数人のグループ、なかなかの健脚で早いピッチだったが、今日は門前にある遍路宿高知屋に泊まると言っていた。
とても評判のいいところですよと伝えておいた。黒色のなかなかしゃれたデザインだ。
13:40頃雪蹊寺をあとにして次の34番種間寺へ向かう。
6.3キロだ。
34番 種間寺
2時間弱、15:20頃到着。
この札所は私にとって感慨深いところだ。前年2012年には裏のお墓が見える広い駐車場で車中泊させてもらったし、
後で紹介する高群逸枝「娘巡礼記」のぞくっとするような箇所の舞台でもあるし。
<お寺の雰囲気と写真>
ほとんどの人が山門、本堂、大師堂3点セットのうち1~2か所を記録写真として撮る。
しかしお寺は足があって動くわけではなく、誰がとっても、どの人のHPを見ても変わるところはない。むしろ、歩いていて遠くに見えてくるお寺の風景のほうがお寺の立地する箇所の雰囲気を知るうえで参考になる。
上の写真もそういうつもりで撮ったもの。
うらぶれ感十分の平地。
お寺そばにめぼしいお店、宿は見当たらない。
山門がないことが影響しているのか境内全体の配置がいまいちに感じられる。
かなり手前にあった道端の小さな石像はよかった。
<種間寺と高群逸枝の野宿>
高群逸枝「娘巡礼記」で1か所選ぶとしたら次の一節を挙げたい。
お金と宿の保証がない中で続ける旅の厳しさ・意志の強さをこれほどストレートに示すものはない。
映画化もされた素くき子の「旅の重さ」の書名はこちらにふさわしい。
以下引用
疲れた足を引きずって34番本尾山種間寺(もとおさんたねまじ)に着いたのは,既に暮れきって四日か五日の玄月が寂しく,淋しく林の上に照っている頃であった。
札所のそばには宿があると聞いてきたので、そこにいくと、お見かけどおり沢山なお客さんで始末に困っている。気の毒だけどお断りという。
仕方がない、とにかくお寺に行こうというので山門を入って、本堂に礼拝し納経を願い、通夜さして下さいと頼んでみると通夜は一切お断りしているという。
では歩きましょう。こういって私は静かに笑った。もう心もすっかり落ち着いてきた。泊まるも歩くも五十歩百歩のみ。
しかもこのさみしい夜空の下をとぼとぼと辿るー私はも早や一徹その気になって、おじい様を促した。でも、お爺さんは疲れている。「特別に」という僧の許しを得て草鞋もとかず、大師堂の前の腰掛にキチンと掛けたまま一睡もしないで夜を明かした。
随分と夜は長い。
2013年3月25日、庭を掃いていた20代前半と思われる修行僧らしき人にこのエピソードのことを聞いたら全く知らないという返事だった。
本堂は風につぶされ昭和45年に再築されているが写真(下)の大師堂は1918年(大正7年)8月12日当時のままかそれとも改築されているのかわからない。
種間寺を出て清滝寺に向かうが、表示のキロ数が地図より長い。一瞬、あれっと思ったが、こういう表示は自動車を対象としている。歩きなら9.8㌔となる。
今日は時間的にも間に合わないのでその手前に宿をとっている。
<1日の歩行距離と体感>
今日は遍路として一般的な距離約30キロを
歩くのでそこそこ疲労感が出てくる。
仁淀川の堤防あたりでなんとも言えない絶望的ともいえる倦怠感に襲われた。
20数キロだと余裕、30数キロだと普通、40キロを超えるときつくなるというのが実感だ。40キロと言えば東京から横浜・千葉までの距離だからおかしくはない。前日も翌日も歩くのだし。
やっと井上病院ほか病院の多い市街地まっただ中にある宿に着いた。このところ、ビジネスホテルが続く。
あまり感じがいいとは言えないホテルだった(ビジネスイン土佐5階 素泊まり5225円)。
洗濯はせず近所のコンビニに食料の買い出しに行き、その帰りこの後何日かご緒させてもらった愛知の歩き遍路の方と顔が合い少しお話。(2014.12.1記)
16日目 2013年3月26日
宿→35番清滝寺→塚地休憩所→塚地峠→宇佐→36番青龍寺(しょうりゅうじ)→浦ノ内湾横浪の民宿泊まり
無人の受け付けにカギを返して6:40出発。清滝寺のある山が遠くに見える。山の頂上まで登るのは大変だなと思っていたが、中腹にあると聞いて少しホッとする。
ただし、道は狭く、傾斜は厳しいものがあるので車の人はとても神経を使うところとなっている。お寺には7:30頃到着。
このお寺で特徴なのは駐車する場所が境内のど真ん中にある点だ。平地のスペースに余裕がないのだろう。
桜がきれいだった。
納経所で竹の杖を販売していた。竹はよくないと根拠のないことを言う人がいるが、安価で軽い素材であり庶民に使われていたと思う。電気丸鋸で切断し、かんなで削って作るものより同行二人の趣旨にあうのではなかろうか。
清滝寺を降り、市街地を通って39号線に出る。
塚地(つかじ)休憩所に出た。
かなり広く、公園になっている。塚地峠へのハイキングコースの基地という感じだ。WC、東屋なども整備されている。
東屋では丁度テントをかたずけている人がいた。10年以上歩いていると聞いた。アルミ製の4輪台車に荷物満載で、この荷物ゆえに峠へは行けず、トンネルを通るとと言っていた。みかん一つをいただき、おいしく食べた。
どういう人生かわからないが、やさしそうな人だった。今になって気が付いたが白いズボンをはいていた。
峠道は岩つつじ(三橋つつじ?)もきれいでいい道だ。
難路であるかの様に記述している雑誌があったが、まったくそう言うことはない。実際歩いていないと過度に恐れたり、軽視したりする例だろう。
つかじ峠を降りる。
安政地震を伝える石碑があった。2度目だ。海が近く大きく影響を受ける地域なのだろう。
36番 青龍寺(しょうりゅうじ)
入り組んだ岬の寺に到着したのは、12:25頃。
いかにも観光地的な立地から、観光寺の色彩が濃厚ではと予想していたが、思った以上にしっかりしたお寺だった。
唐の青龍寺、相撲取りの朝青竜とも縁があるわけだ。
32番、34番、35番、36番とここら辺は真言宗豊山派が多いのはなぜだろう。
本堂に向き合う形に在る西国33か所の像とそれを包む屋根が印象的だった。
さて、青龍寺から先のルートであるが、47号線横浪スカイラインを通る道と宇佐大橋を打ち戻って浦の内湾沿いに23号線を歩く道がある。
当初は有名人が書いていた「みっちゃん民宿」のある前者を考えていたが(予約)、このルートは上り下りが大変、その宿の有名な女主人は大病の後で満足な世話はできないと言っていたこと、それにお寺の案内看板に後者ルートを勧めることが書いてあったのでそう変更した。
行程的に丁度良い宿が見つからなかったのが難点ではあったが、「同行二人」9版には載っていない宿の広告をお寺で見つけて予約が取れたことも一因ではある。
(なお、36番のそばにある国民宿舎土佐も評判がよく、ここに泊まる人も多いようだ。)
海沿いを歩く。
砂浜が脇に見える。
何やら感傷的になり、砂浜に降りて杖を卒塔婆にし、供養の文字を書いた。
途中、いつからか一緒になった千葉県船橋市の男性Oさんとともに、16泊目の宿「さざなみ(洲崎市浦ノ内東分)」に16:30到着。(写真右)
Hさんはとてもピッチが速く合わせるのに少々くたびれた。
今日の客はビジネスイン土佐で顔を合わせた愛知県幸田町のOさん、船橋のOさん、仙台のMさんほかと私で計5人。
狭く古いがBHと違ってみんなと共通のお話ができるのはよい。Hさんは奥さんを亡くされて歩いたのが最初。今回は足を痛めながらも交通機関利用を交えながら頑張って何回目かの区分うちをしている。淋しそうで、それだけ人懐っこい感じもする。
17日目 2013年3月27日
浦ノ内の民宿→トンネル→須崎休憩所→道の駅かわうその里すさき→角谷トンネル→焼坂トンネル→とさくれ(中土佐町)→旅館F
昨夜は宿の取り違いで客数が一人多くなったり、食事の内容もイマイチだったりと芳しくはなかったが、朝食は名誉挽回内容で満足。
さざ波さん、民宿は今年1年で辞め、福祉関係の施設に使ってもらうとか言っていた。
あいにくの雨で初めから上下完全雨装備で出発。
短めのトンネルを経て8:50頃17番須崎休憩所に到着。
雰囲気がよく、地区の人の善意・おもてなしの気持ちががひしひしと伝わる。
そばにはトイレもあり、ノートにも感謝の声があがる。
小屋内にはデジタル時計がかかっており、時間、曜日、温度などを写真で記録する。
12度か。
トンネルを通ると道の駅かわうその里すさき。
船橋のOさんらとカツオを食べる。家にも罪滅ぼしに冷凍便で送った。
そうそう、ガソリンの値段の記録のため写真を撮っておいた。
須崎駅まで2キロの地点でセルフ・レギュラーで1リットル154円だ。
(これを書いている2015.5.29は1L=131円。変化が大きい。)
道の駅の後、トンネルが多い。
角谷トンネル420m、アワトンネル、そのあとは焼坂トンネル。これは966mと長い。トンネルではなく北に位置する焼坂峠を越えるのが本来の遍路道のようだが歩き遍路もトンネルと峠道に分かれるルートでは後者を選ぶ人が多いように思われる。
今日は雨でもあるので特にそうだろう。
ここで雨具の様子を。
セパレートタイプだとザックカバー、上衣、ズボンの3点が必要になる。昨今ズボンは汚れ対策で黒っぽく、上衣は目立つように派出な色が多い。私も上は赤色だ。
遍路らしい白色は消えてしまう。菅笠と杖で遍路と認識される。
とても不快な中土佐町(土佐くれ)の宿
雨の中、人に聞きながらやっと市街地内の宿に着いた。Oさんもこの宿に予約を取っており、ご一緒することとなった。
玄関に入り、声をかけるも出てこない。雨合羽を脱ぎながらそこで携帯電話をかけて待つ。
やっと出てきた若い女性、開口一番に「ここをどこだと思っているのか」と絶叫。
雨具で玄関が濡れるのが不快らしい。といってもコンクリートのたたきに下駄が置いてあるだけの田舎宿玄関ではないか。
そこに雨のしずくがかかって何が不快というのか。
よっぽど止めようかと思ったが、宿の少ない地点(2軒)での弱いよそ者の立場。
ぐっとこらえた。
中に入ってもすべてにわたって同じ調子
客をバカにし、風呂の場所を間違えても「~といっただろう」と子供をしかりつけるような態度(男性)
山頭火の時代、遍路の地位は低くみじめなものがあったようだが、それはこういうものだったのか。
翌朝の朝食の場も窓のない布団部屋のような部屋。宿の人間は全く顔を出さない。
遍路客が集まってぼそぼそ食べる刑務所のような雰囲気。
古い家屋、水洗トイレはピストル付ホースを手にもって流す代物、料金だけは並。
これほど不愉快な宿はない。宿ばかりではなく土佐久礼近辺全体がいやになった。
以上は私個人の偏った印象ではない。紳士であるO氏も共通体験しているところであり、悪口ではなく批評としてあえて申し上げる。
追記 とさくれの別の宿について次のHPにも書かれていた。
四国歩き遍路日記 http://kaidou-aruki.com/sikoku-top.html
2010年に春と秋の2回に分けて実質42日間で歩き、2年後に完成した東京在住の方の記録。文章・写真とも精緻でとても参考になるHPである。
常識豊かな元企業人という印象であるが、この中で土佐久礼で泊まった別の宿について、激昂ともいえる怒りを述べている。私と似ていて驚くほどだ。
中土佐町役場の皆さん!観光客の誘致に努力しているようだが肝心の宿がこれではどうしようもないでしょう。遍路は歓迎しないとでも言いたいのか。
私としてはこの町はスルーした方がいいと思う。泊まるなら、後で述べる31番そえみみず休憩所で野宿した方がずっと良い。