71番霊場弥谷寺(いやだにじ)から下る途中に割と有名な俳句茶屋がある。

その前を素通りして次の札所への道を歩む。

72番までは4キロ、1時間10分の距離

趣があって良い道と思うが竹藪の山道や竹藪を出た平地の湿地を蛇やカエルがいそうだと嫌い怖がる女性もいる。

 

私も蛇は嫌いだけど、普通の道を普通に歩いていて蛇が向かってくるなど考えられない。

ハブがいるわけでもないし。

車の人はいずれにしても古い遍路道の雰囲気は味わえず気の毒。

 

 

73番出釈迦寺と西行庵

 

72番と73番は近い(500m、5分の距離)。

両寺とも山号は同じで「がはいしざん(我拝師山)」。元は同じ寺だったとのこと。

今、72番は真言宗善通寺派で本尊は大日如来。73番は真言宗御室派で本尊は釈迦如来。

道も舗装されているがわかりにくいというかどう進むべきか迷ってしまう。

73番を先に見、西行庵、72番へと進むことになった。

 

出釈迦寺は空海が虚空蔵求聞持法の修行をした場所として有名。

たちまちに膨大な量を暗記することなど絵空事と思っていたが、TVのクイズ番組に出てくる天才と言われる国立大学医学部生の瞬時に本を読んで正確に記憶するさまを見ていると嘘ではないと思えるようになった。

73番奥の院「捨身ケ獄禅定」へ行く人も一定割合いるようだ。

私はそこより西行庵の方に興味があるのでそちらに向かう。

昔、白洲正子は道がわからなくて難儀したと書いている。

道も年々よくなり標識も増えているがなぜかわかりにくい。

高台で見晴らしも良い。西行も日々見ていたのか。

72番 曼荼羅寺

 

596年創建で八十八か所中最も古いとは知らなかった。

この辺りは空海の生誕地にも近く、ゆかりは深い。この寺も父方佐伯一族の氏寺だったという。

このお寺のシンボルでもあった樹齢1200年以上の不老松は平成14年に枯れてしまい、幹は笠松大師になって残る。

 

74番 甲山寺

 13:54到着。73番から3Kの距離

 真言宗善通寺派で本尊は薬師如来

 満濃池完成の功労金の一部でこの寺を建立したといわれている。あちこちに空海がどうしたこうしたといわれる土木工事があるが、このいわれからしても満濃池は本当なんだろうと思う。

 道なりで裏門のようなところから入ってしまったが他に立派な門があって門大尽?

バスで来た和服の婦人の集団がいた。生け花かお茶の関係か?

全体としてこじんまりしている。コンパクトシティーならぬコンパクトテンプルという感じ。

後ろに位置する甲山が工事らしきもので大きくえぐられているように見えるがどうしたのだろう。

 

毘沙門天が有名

お寺が近いことを活用してのものか、近隣のお寺で七カ所まいりというのをやっている。

 

75番 善通寺

14:53着。74番から1.5キロ 15分の距離

当然ながら善通寺派総本山。 本尊は薬師如来

 

空海生誕の地であり高野山,東寺と並ぶ空海三大霊跡の一つ

空海は774年現在の御影堂奥殿付近で誕生

 

由緒があり、広く、整然としており、およそ必要と思われる建物がそろっている。其のことゆえかえって距離を感じてしまい、宿坊を忌避してしまったが泊まればよかったと今になって後悔。とにかく、宿坊は泊まれるところは泊まるべしとアドバイスしたい。

 

 

この寺院についての説明案内は多いと思うので特に印象深かった二つを取り上げたい。

一つは法然と親鸞にかかわるもの

東院には法然の塔が。西院には親鸞があるではないか。

親鸞がここに思いを寄せていたとは意外だった、しかも千葉県市川市という知るところに関係するからなおのこと。2016年京都の東西本願寺へ行ったこととの縁も感じる。

 

親鸞堂に掲げられている説明には縁ある場所として千葉県市川市の鎌田荘という地名が明記されている。同市に鎌田という地名はないようだが。隣接するところに鎌ヶ谷市という地域はあるが。

荘園名として正倉院文書に残っているのだろうか?

 

もう一つは東院にあるクスの大木だ。大きく風格がある。

数百年レベルでみると松は短命、クスは長命ということになる。名所旧跡に行くと昔松の大木があったが今枯れて無いというところが多い。今日見た72番もその一つだった。

70番から始まった37日目の札所も6か所目のここで終了(15:28)。

 

さすがに疲れが出た。

足を引きづるように宿(善通寺ステーションホテル)のある駅方向へ向かう。

 途中広い道に面するコンビニに入りアイスクリームを買って店の前のベンチに座って食べる。

 

 2017.4.1記

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38日目 2013417

 76番 金倉寺(こんぞうじ)

 

75番善通寺から4キロ1時間の距離。

駅前のビジネスホテルを出、細い住宅のなかを通るなどして7時38分到着

 

 

 後で知ったことだが、もう一人の偉大な宗教者という感じの智証大師円珍が生まれたのはこの寺だった。

大師堂堂内には5体の木像がある由。

智証大師、天台大師智顯、伝教大師最澄、神変菩薩、弘法大師。

休憩所があるのが嬉しい。通夜できそうに見える。

 ところで、円珍は弘法大師の甥であること(正確には姪の子)、天台寺門宗の開祖と強調されるが天台寺門宗の開祖というよりその前に天台宗のトップであったことの方が重いと思う。

近い親族で真言宗の開祖と天台宗のトップを輩出したというのは尋常ではない。

これについては既述なのでそちらも(智証大師円珍と空海)。

 

空海本人のことばかりに囚われ、なんで一族の卓越さに触れる人がいないのだろうと疑問だったが、念のため中国新聞水原記者の書を開けてみたら!

しっかり書かれていた。私の知る限り唯一の書(中国新聞社「死装束の旅」)だ。

以下、一部を引用しよう。

 

「(智証大師円珍)は天台宗寺門派の開祖であり、5代天台座主も務めた器量人である。

空海出生より41年後の815年に、この地の豪族和気宅成の子として生まれた。

母親は空海の姪。

 佐伯一族からはこの時代、驚くほど名僧、高僧が輩出する。(中略)

法光大師真雅は弟、智泉はおい。また高野山改装事業の功労者真然もおいだった。

(中略)こうした中で真言宗ライバル天台宗で名をあげた円珍により、一門自体がそもそも

天才的宗教家系であることを裏付けることになる。円珍の存在は異彩を放っている。

 円珍も留唐する。半世紀前に空海の開眼した長安の青竜寺。そこでやはり正統の密教を学ぶ。台密の第一人者として真言宗の東密の向うを張る。(中略)

 

二人が出会ったという話はない。が、親族である佐伯家と和気家の屋敷の距離はわずか3キロ程度。(後略)」

 

 

 

 乃木希典は27か月この寺で暮らしていたが、そのわけは今も善通寺のわきにある当時の善通寺第11師団長だったかららしい。

 

 2017.4.6記

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77番 道隆寺

真言宗醍醐派 本尊薬師如来

 

8時、金倉寺を後にして道隆寺に向かう。

天気は曇り。

4.5キロ、70分の距離。

 

一般住宅に囲まれた狭い参道の向うに山門が見える。

この風景、あとで本で見た40年前の風景にそっくり。著名な建物のそばにある民家はついでに撮られてついでに経年景観変化を見られることになる。

 

9時到着す。

 手前に石像を販売するお店もあった。広い庭があって信心深い人なら小さなものがあってもいいかなと思うかも。

 開基は和気道隆(みちたか)なのでどうりゅうじと名付けられた。76番の開基者は和気道善だし、このあたりの和気家の勢力はかなりのものであった模様。

 地味な小ぶりのお寺に思われるが住職にはのちの○○大師が多く就任している。

 

 多度津藩京極某氏はここの本尊薬師如来のおかげで盲目が治ったといういわれもあり今でも眼病平癒を掲げている。

境内には255体の石像が並ぶ。

 

 

78番 郷照寺(ごうしょうじ)へ

 

次の札所まで7キロ2時間と少し離れる。

JR予讃線の南側に位置する21号線、33号線を進む。

丸亀市の中心、まるがめ駅と丸亀城の間を通る。

 

幼い時―小学校か?―過ごした街並みを故郷と思うのではないか。

人によって窓の外に山が見える風景、下町的な商店の見える風景と色々だろう。

私の場合は山も、お店も見えないただの小さな家が並ぶ住宅街に故郷を感じてしまう。

 

11:43山門前に着く。

まだありそう。登りの傾斜に負担を感じた記憶が残る。

四国のお寺には多くない京都風の庭が印象深い。

手前の天井に描かれた絵以外お堂にはあまり記憶がない。

開基は行基であるが中興の祖である一遍とのかかわりで真言・時宗両派を宗派とする珍しいお寺となっている。

 

 2017.4.11記

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79番 高照院(天皇寺)へ向かう

 78番から6キロ、2時間弱の距離。

 真言宗御室派 本尊11面観世音菩薩

 途中、善根宿、シャッターアーケード商店街、四ツ谷シモンまであって多彩な歩き風景だった。

 

 

 

崇徳天皇と八十場の水、天皇寺、白峰宮

  

例の地図には高照院と表示されているが現地ではもっぱら天皇寺と呼ばれている模様。

遍路の各寺院について事前の学習なしに行ったと述べたが、今になってはこのあたり(79番と81番白峯寺)に関してはある程度事前の理解があった方が良かったと思う。

 そうしないと歴史的にも文学的にも崇徳天皇に関して意味を持つ次の三か所の関係がはっきりしないからだ。

 

 八十場の水

 79番天皇寺と白峰宮

 81番白峯寺と崇徳天皇白峯陵、西行歌碑

 

 割と最近に、NHKの大河ドラマになったので見た人も多いと思うが、保元の乱(1156年)

 で敗れ、このあたりに流された崇徳上皇はさんざん冷たい仕打ちをされた後、死亡(殺されたとの説が多い)。

 で、その亡骸をどうしたらよいか朝廷にお伺いを立て、返事が来るまでの二十一日間、8月の暑い季節であったことから冷たい水が流れる泉につけていたのだ。

 その泉が八十場(やそば)の水。

 

JR予讃線の線路を越えてすぐ高照院(天皇寺)の手前にあったのに気が付かないかでスルーしていた。白洲正子氏もその著「西行」で感慨深げに写真まで掲載していたところなのに。

 

朝廷の沙汰があり、亡骸を葬り、陵があるのが81番白峯寺ということになる。

 

 泉があったお寺の当時の寺号は「妙成就寺」。

上皇の亡霊の動きが尋常ではなく、それを鎮めるため二条天皇は妙成就寺の一角に崇徳上皇社を建立(これが後の白峰宮)。妙成就寺も天皇寺と改められた(別当寺)。

その後、明治の神仏分離で白峰宮と(天皇寺の寺号を遠慮しての)高照院に分かれた。

ということみたい。 

 さらに京都にも関係する宮ができているようだがそこは後日。何重にも冥福を祈るべきところがあるとは、当時の人がどれほど怨霊を畏れていたかが偲ばれる。

 

 

 とにかく無理やり神仏分離令で別れさせられたので広いとは言えない境内の天皇寺と白峰宮の建物関係はぐちゃぐちゃに見えてしまう。多くの遍路日記も消化不良のままに見える。

赤鳥居の奥に見えるのはしめ飾りでわかるように白峰宮。

 鳥居の右側に天皇寺という大きな碑があり、車で行く人は駐車場もあることからこちらから入る。建物は本坊。

 一見洋風ともいえる赤門を通って白峰宮の方に入いるとその左側に本堂と大師堂がくっついて並んでいる。とても不統一な印象を受ける。

由緒もほとんど知らなかったこともあり、とにかく空っぽなお寺という印象しか残っていないのは残念でもある。

 

 

 38日目2013417日の記録をほぼ4年後に書いているわけだが、本日のNHKブラタモリは京都祇園だった。

 建仁寺の隣になんで花街があるのか不思議でならなかったが明治に入って政府から神仏分離の関係で広大な寺領の没収を受け、そこに四条通沿いにあった花街が移転してきたと知った。

神仏分離で日本中計り知れない影響を受けていることを知る。

 

*65番三角寺の時もそうだったが何かがあるお寺の写真を撮るとなぜか写真がまともに撮れず困ってしまう(ぶれるなど)。

 おん まか きゃろにきゃか そわか

 おん まか きゃろにきゃか そわか

 おん まか きゃろにきゃか そわか

 

 2017.4.15記

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 そうだ京都へ行こう(祇園)へ移る

 

 

 

80番 讃岐国分寺へ

 

今日最後の札所に向かう。80番という番号に感慨深い。

79番から約7キロ、2時間の距離。

 

線路のそばにある柳田碑は崇徳上皇が殺害されたとされる場所。

関係自治体は崇徳上皇にかかわる場所を名所旧跡として挙げている。

 参考)坂出市ホームページなど

日向王の塚があった。綾川流域に勢力を誇った綾氏の祖先ということで崇徳上皇とは関係なさそう。

 

国分寺跡の石碑に?

現国分寺よりかっての寺域は広かったということだろう。

 

 

16:17 仁王門に到着

軒先左右に松の枝が伸びていて山号がわかりにくい。接近して見る。

 

現国分寺は跡とか遺跡扱いされることを好まず現役の宗教法人であることを宣言している。まあ健康な考えだと思う。

 

 当然ながら国分寺は奈良時代、聖武天皇が勅願し、行基によって開基された寺で現在でも全国に多く残る。

 余計な話になるが私が小学校を過ごした市にも国分寺があり、小学校の同級生の女の子の父親はたしか国分寺のお坊さんであった。国分(こくぶん)という地名・町名があり、国分小学校もあった。

 さだまさしが長崎から上京して寄宿したのは国分の親せきの家で、その後も歌手として大成し信州に引っ越すまではそのあたりに住んでいた。

  

 

 

 

本堂(鎌倉時代中期に再建)と重要文化財の鐘楼。

大師堂・納経所。ここにも門がある。

ちょっとスッキリ感に乏しい。

左に新し目の白色の万霊塔がある。

国分寺に近い今日の宿はえびすや旅館。

16:40到着

お客は久しぶりに会う福山の6人衆、70歳くらいの東京の人、大阪の人と私で計9人。

洗濯と乾燥をやってくれた。入浴は一人ずつ順番。

 

毎日足の指に巻くテーピング材の量もかなりのもの。このおかげで無痛・無傷で済んでいる。今日2巻補充しておいた。

 

2017.4.17記

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当園の概要

 

完全オフグリッドです。

 土地:1千数百㎡、一辺は舗装公道に面する南向き方形平坦地。病院、ホームセンタ、コンビニが其々複数あるもなぜか都市計画区域外。2002年取得

 山小屋:柱を4本建て、それに斜めに屋根をかける竪穴式住居構造。白川郷の合掌造りに似ているところもある。床は土間。 

 

電気:独立型太陽光発電 第1装置 24V1KW発電,

第2装置 12V約200W発電

それぞれ1500Wインバーターを介してサイン波AC100Vで使用。他にバッテリなしのシステムがいくつかあり。

 

水: 雨水利用:3カ所の屋根(PV架台を含む)で集水して1トンくらい貯水:下屋屋根などを活用すれば増量は容易だが使いきれないので計画なし。

飲料水:〇〇の駅で150m深井戸の検査済み水をもらえる。

 

汚水処理:新見式準拠

 

改良及び近い将来の計画

①止水(雨水)対象の簡易緩速濾過装置(今後)

②山小屋の改良

・二重屋根化(終了)

・土間床を防湿コンクリート部分と伝統的三和土部分にすること(終了)

・外壁に沿って犬走敷設(終了)

・ポリカ平板で大型ひさし(終了)

・無線ANT用パイプ設置(終了)

③小屋内土間に蓄熱のための大きなコンクリート桝+FRPバスタブを設置(終了)。これを活用する具体的方策(今後)

④厳冬期無暖房自己体温のみで過ごせること及び建物が崩壊してもその部分は現状維持が可能な小屋内シェルタールームの建設(終了)。ふだんはゼオライト、粒状活性炭の少量備蓄庫として使用。換気はDCファンと塩ビ管によっている。

⑤入口ドアの断熱・防音・採光化(終了)

⑥入口両脇に収納庫設置(終了。片側はバッテリーバンク庫)

太陽熱利用のエアヒーター(装置は数個完成)。その運用等(今後)

 ⑧ 無線通信(モービル)

430・144MHZ FM50W出力(終了)

余剰雨水を活用して平城宮跡東院庭園にある洲浜の池をイメージする小さな浅い水辺を作りたい(規模は畳1~2枚程度)。

 

 

 

 

1kw独立型太陽光発電
1kw独立型太陽光発電
初めての雨水利用
初めての雨水利用
こちらは絶版です。
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