正岡子規 東京と千葉長南町
2013年の四国歩き通し遍路に行く前、訓練として1日の遍路歩行距離(長い方)に相当する約42キロを10時間かけて歩いた。
千葉市から大多喜町だ。
その中間くらいであろうか山の中で大きな分かれ道に出た。
立派な石碑(道標)があった。こういうものは明治維新ちょっと前というのが多いがそれより100年古くそれでいて程度がよかった。
その50m先に石碑があった。
何と正岡子規のもの
これから四国に行こうとする者が全く関係のなさそうな千葉の山の中で四国の象徴ともいえる正岡子規の足跡に遭遇するとは!
何かの縁を感じた。
石碑は御影石が光って読みにくいので以下に。
正岡子規は東京帝大の学生であった明治24年3月25日、房総行脚を思い立ち、東京本郷の寄宿舎を出立。
市川、船橋、成田、千葉、長柄、長南、大多喜、小湊、館山、鋸山まで旬日の行脚をして一連の房総「隠れみの紀行」を残している。
3月28日には長南で小雨に降られ,長南の町中でみのを求めたことが「子規全集」○○に明記されている。
(以下略)
注 旬日(ジュンジツと読む。10日間くらいの意味)
ここで残した名句は
春雨の 我 蓑着たり 笠着たり
ここで購入した蓑をえらく気に入り、後後まで現台東区の子規庵で壁にかけていたのは有名だ。
松山の子規記念館は子規が途中、千葉で撮った笠と杖を持つ記念写真を入口に掲示していた。(下の写真)
偶然、子規が歩いた同じ道を約40キロ歩いたことに感動
2017.9.28記
明治24年の大学生が歩き旅する恰好はこうだった。
菅笠とわらじに脚絆。
東海道中膝栗毛と変わらない。
頭髪は長髪ブームがとっくに去っている現代の学生とまったく同じ。
(以下ウイキペディアより)