そうだ京都へ行こう(2016年秋最終) ⑫ 西本願寺に衝撃
そういえば京都駅に近く、その立派な門を目にしたことはあるが本願寺に入ったことはなかった。
なぜだろう。
浄土真宗はなんとなくなじみがない。
身近、親戚で同派の檀家はゼロ。
訪れる誘因となる美庭,名庭はあまり聞かない。
内紛など敬遠したくなる要素があった(西、東本願寺の区別がつかない)。
他の宗派とどこか違うものがあり他宗派しか知らない者にとっては異質に感じてしまうのだ。
駅から人に聞いた道を歩く。
近づくと何やら縁がありそうな他宗派の寺院があり其のわきに国宝唐門への道しるべがあったのでそこに入る。
これは好くなかった。こちらから行くと裏口から入るような感じになってしまう。
もっとも龍谷大学が隣にあることが分かったのは好かったが。
建物の間をぬうようにして広い境内の中心に出る。
むむ、だ。
確かに違う。違うが仏教にとってあるべき姿を持っているのではないかと直感的に思えたのだ。
観光業、庭園業経営者であるかのようなお寺が多い、京都の有名なお寺の多くはそうではないか。
しかし、ここは違った。
たとえ観光目的で来た人にさえ一生懸命に受け入れようとする姿勢が見受けられた。
京都の有名な院をいくつも持つ大きな寺はそこに入るたびに入館料を取る。
引き換えにとおり一遍の解説をしてある入場券を配って宗教解説と伝道は終わり。
建物と庭を見たらさっさと帰ってくださいと言わんばかり。
西本願寺は違った。わざわざ大きく立派な休憩所的建物を作っていた。
(四国八十八箇所では31番1カ所)
せっかく来てくれた宗教心ゼロのお客も大切にし、できるなら西本願寺の考えるところを知ってくださいという姿勢がうかがえている。
ゆったりした休憩所のほか
入館料は一切取らない。(これは覚悟がないとできないと思う)
関係図書を販売するブックセンターがあって伝導の心を忘れていない。
大きなお堂が二つ並んでいる。
御影堂と阿弥陀堂。
本堂にあたるもので国宝だそうだ。
他の宗派では「ここから先は入いれません」あるいは「別料金です」と言うところ。
そこに靴を脱いで入ることができる。
中に入って驚いたのは
体育館のような広い空間となっていて、そこに多くの人が入って僧侶の読経を聞いていたこと
読経の終わりに法話もあったことだ。
傷ついた人、弱い人に寄り添うような内容だった。
(四国遍路では宿坊に泊まる人が朝あるいは夕に聞くことができるだけ。)
ここは現役のお寺だ。
両堂を結ぶ立派な渡り廊下を歩いて双方を拝観できる。
そして中から見た入口と休憩所風景
宗派創始グループが処刑されたり流刑されたり既成宗派から妨害されたことが影響しているのか。
どこか違う。
五木寛之が、古くは丹羽文雄など多くの文学者が親鸞に続くこの宗派に惹かれるのもそれなりのものがあるからだろう。
空海、最澄、道元その他過去の超人に頼り、すがるだけで今宗派として何をしているか顔が見えてこない状況ではいくら過去の歴史をもっていても危うい。
休憩所では一定の時間ごとに参加者を募って無料案内ツアーをしていた。
参加者数人。
何県から来たかそれだけを述べ美人女性僧侶について解説を聞きながら回った。
法隆寺のボランティア解説を想い出す。
2017.1.21記